2010.07.05 (月)
偶然見つけたページだけど、なかなか面白い。
右脳・左脳テスト:Right Brain vs. Left Brain test
最初は左回りに見えたけど、ちょっと注意をそらしたら、右回りに見えるようになった。
ちょっとコツをつかむと(ぼくの場合は、足下の影を見ること)、すぐに右でも左でもどっちでも好きに回せるようになる。と思うのだけど、どうですか?
Filed under: Link-Bookmark | タグ: 感覚
Tail-Lagoon @ 04:37
|
PageUp
2010.02.04 (木)
『風の旅人』vol.39 を読んだ、というか見た。もちろん文章も読んだけれど、でもいつも本当に驚くのは写真。まことに凄い。凄いんだけど、凄すぎて、しかもそれがいつものことなので、凄さに慣れっこになってしまう、というか麻痺してしまう(なんと贅沢な)。が、今回は特に「ロダンの夢」(細江英公)に衝撃を受けた。割と最近、たまたまロダンを見たからだ。正確には去年12月初め頃か、西洋美術館で企画展を見たついでに……。そう、ロダンは常設されていて、もう見慣れすぎているくらい見ているのに、それでも訪れる度についつい見入ってしまう。特別好きというわけでもないのに、どうしても無視できない、見ずにはいられない、ぼくにとってロダン作品はこれまで常にそういう対象だった。そして、この『風の旅人』39号に衝撃を受けたわけは、写真に撮られたロダンは、自分の肉眼で見たロダンとは、全く違う表情を持っていたからである。……いや、全く違う、というのは嘘だ。ただ、むしろ、ぼくの凡庸な眼で見たロダンよりも、遥かに生々しい、得体の知れない圧倒的な力を持つロダンがそこにいた、というだけのこと。たぶん、ロダンの持つ力に、写真家の力が倍加されて、そのために、彫刻と写真という二重の体現が、ぼくの肉眼よりも遥かに濃密な視覚を生み出しているのだろう。──本当のところ、そういう理屈ではない気がするが、かといって他に言い表しようもない──そういえば、『風の旅人』Vol.5 でも別の写真家(増浦行仁)のロダンの写真に衝撃を受けたことを思い出す。ロダンの彫刻と写真とは、不気味に共振する何かがあるのだろうかと、ふと思った。
Filed under: other | タグ: Art, 彫刻, 感覚
Tail-Lagoon @ 23:53
|
PageUp
2010.02.02 (火)
僅かとはいえ、久し振りの積雪。通勤途中の電車内から窓外を見る。中央線の高架から見下ろす低層住宅街の屋根の広がり。窓が曇っていたせいもあって、雪で白く覆われた景色は、束の間、広大な雪原の幻をぼくに見せてくれた。一瞬のその幻がぼくにとっては、現実よりも遥かにリアルだった。
Tail-Lagoon @ 09:14
|
PageUp
2008.04.16 (水)
4/14 天気が良かったので、自転車で鷹の台の松明堂ギャラリーへ。
鉄板をプラズマ溶断で切り抜いた望月通陽の作品が展示されている(「鉄」の展示は 4/20 まで)。
望月通陽氏の作品は、光文社古典新訳文庫のカバーの、あの軽妙な一筆書きの絵が印象的。あのシリーズの文庫が家に数冊あるのだが、ついついその一筆書きを指でトレースしてしまう。そうすると、その線のあまりに自由奔放な動きの不思議さを体感できて、本当に面白いのだ。えっ、こっからこっちへ線が流れるの、ええっ、どうしてこんな順序で形ができてゆくの、おおぉーっ!? と思わず指先のジェットコースター的スリルを味わうことになる。楽しいからやってごらんなさい。
という遊びはやっていたのだが、実は望月通陽という名前を意識したことはなかった。『風の旅人』で教えてもらうまでは。
松明堂ギャラリーに展示されている作品も、とても楽しく面白かった。切り抜かれた一枚の板の自由奔放な形は、眺めているだけで何ともいえない気持ちよさと解放感がある。思わずニコニコしてしまうような、楽しい気分。
重く・固く・冷たい鉄という素材が、軽やかで・柔らかく・温かい何ものかに変貌している、その不思議なギャップ。
錆が描き出す風味と質感が、作品への親近感を齎す(ヤスリ掛けして錆止めを落とし、腐食剤で錆を促進し、丁度いいところで再度錆止め処理を施してあるそうだ)。思わず触ってみたくなる。触ってもいい作品を教えてもらい、切断面に触れてみたが、その凹凸がとても心地よい。作品の輪郭は、なめらかではなく、ギザギザしている(溶断なので鋭くはない)のだが、それがまたいいのだ。ギザギザが形の存在感をより確かなものにし、かつ浮遊するような軽やかさと柔らかさも感じる(凹凸が、人間が作ったものとして、手の跡の確かな感触を残しているせいだ)。
作品そのものだけでなく、それが生み出す影もまた面白い。複数のライトが作品を照らしているので、白壁に影が落ちているのだが、その影の淡くぼやけた形が幻想味を帯びて、不思議な懐かしさのようなものを感じるのだ。空を自在に飛び回ることのできる世界へといざなわれる。だからきっと、大人よりも子供の方が、もっと楽しめるに違いない。そんな展示だった。
Filed under: other | タグ: Art, 感覚
Tail-Lagoon @ 13:06
|
PageUp
3/31 『泥の川』、4/1 『埋もれ木』、4/2 『眠る男』を観た。
『眠る男』──縁側の奥の座敷、ただ布団の中で寝ているだけの男のあの姿が、どうしてあのように心に染み入るような存在感を感じさせ、向こう側の時間を想起させるのだろう。ただ見ているだけで、ほかにはもうストーリーも台詞も要らないとさえ思ってしまう、完成された映像。水車小屋、海辺の定食屋、山小屋など、建物にまつわるカットが、ぼくには印象深かった。
それにしても、記憶というのは不思議なもので、2週間ほど経た昨晩のこと、不意に、老婆が複数の家電のリモコンに色テープを貼って区別していたことを思い出した。ぼくは、それが何の記憶なのかまるでわからず、首を捻ったのだが、今こうして『眠る男』のことを思い返し書いているうち、昨夜のあれがこの映画のワンシーンだったことに思い当たったのだ。役所広司扮する電気屋が、アンテナ修理のため老婆の家を訪れたというエピソード。映画を観ている時は、特に何とも思わなかったのだが、どうしてそれが昨晩唐突に蘇ったのだろう? まあ映画に限らず日常の様々なことに関して、その時は気にもかけていなかったことが時間を経て不意に思い出される(重要なことは忘れているくせに、だ)というのは、ぼくにはよくあることだ(皆そうなんだろうか?)。そしてそんな時はいつも、なぜ自分の記憶が、自分の思うように管理・保管できず、思い掛けない再生を試みるのか、つくづく不思議に思うのである。あのリモコンのシーン、あれが自分にとっていったいどのようなインパクトを持っていたというのだろうか? 自分でもさっぱりわからない。しかしそういうわからないものが、記憶の深層に常に刻み込まれているということだけは確かだ。
『泥の川』は、味わい深い映画だった。何とも切ない映画でもあった。自分の子供の頃の記憶とも、どこかで重なり合う部分があって、それが言いようのない懐かしい寂寥感を伴って、観ていて本当に切なくなる。感傷というよりは、どこか身体の奥底に潜んでいた生存の悲哀──それは子供ながらの甘い悲哀だが、しかし子供だったからこそ感じていた、生きているということの本質に触れている不可思議で切実な悲哀──どこか失われてしまった筈の、なくしたと思い込んでいた場所からの、その蘇生に立ち会っているような感覚だった。
『埋もれ木』は、最初観た時のあの感触を確かめたくて、もう一度観たわけだが、どこか異質な(最も遠く、それでいて最も近く親しい)内部に誘い込まれるような奇妙な夢現つの状態になるのは、やはりただごとではないと思った。またいつか体験してみたい。ただごとでない出来事は、遭遇し体験する以外、他に再現の方法はないのだから。そもそも、あまりに映像的な感動の、その感想を言葉でここに記録しておこうなどとは思わない。上にも書いたが、記憶は定着させようとしてもうまくいかない。ただ奥底に沈み込むに任せ、いつか再び(思いがけず)浮上してくるのを待つのみである。
Filed under: other | タグ: Art, 感覚
Tail-Lagoon @ 13:04
|
PageUp