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「小栗康平全映画」を観る »

 22日、23日の土日に、ポレポレ東中野で開催されている小栗康平監督の映画上映に出かけた。5作品全部見るなら4,000円、しかも嬉しい特典付! と、思わず宣伝したくなる。(詳細は下記の関連サイトのリンク先で見てください)

 初日は『死の棘』『埋もれ木』の2本、二日目は『伽倻子のために』の1本、計3本を見た。残る2本『眠る男』『泥の川』は、今のところいつ見に行くか決めてないが、楽しみにしている。4月11日まで開催しているから、まだ余裕はあるけれど、なるべく早いうちに全作品を見終えて、残りの期間で幾つか再鑑賞できたらなあと目論んでいる次第。

 小栗監督の映画を見るのは、実は初めてだ。『風の旅人』を通じて知ったのである。17号から最新号までの小栗監督の文章を通読すると、人間がものを「見る」ということの、その根本的な行為について、毎号話題を変えながら深い考察が重ねられ、われわれ読者はもはや「見る」ことを「見過ごす」ことができなくなってゆく。人間にとっての、「見る」ことと「生きる」ことの、その深い連関に思い至った時、ぼくらが普段意識的にも無意識的にも見続けている世界とその映像記憶に対する、新しい「視点」を得られるだろう(静止した思考的な視点ではない、生きた「眼差し」と呼べるようなそれを)。

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Tail-Lagoon @ 10:54   |   PageUp

イサム・ノグチ展 »

 イサム・ノグチが好きかと聞かれても、よくはわからない。ぼくは普段あまり彫刻家の作品を見に行くようなことはない。彫刻家と言えば、イサム・ノグチ以外にはせいぜいロダンとか高村光雲・光太郎の名を思い浮かべることがあるくらいだ。あとはミケランジェロか。しかしミケランジェロは画家でも建築家でもあったしなあ。
 ではつまらなかったかと聞かれれば、いやいやすごく面白かったと答える。抽象彫刻は面白い。──彫刻の優劣はわからないから、仮にイサム・ノグチの作品じゃなかったとしても、たぶん楽しむことができたかもしれないが──ともかく面白かったのだ。
 では何が面白かったのかと聞かれれば、それは抽象的な造形ゆえの、見る者に様々な想像を喚起させるところが面白かったのだと答える。
 立体は、絵画と違って、その周囲360度のどこからでも見ることができ、しかもその角度によって様々に表情を変える。ある角度では奇妙に複雑な形態になるかと思うと、別の角度では驚くほどシンプルな輪郭を見せる。思わず息を呑むような変容。時には何か見慣れた具象物に不思議と似ていたり、しかしちょっと視線をずらすともうその形は消えてしまっている。隠された面が現れ、見えていた面は奥に隠れる。
 あるいはそのバランスやテクスチャや微妙な遠近。磨きこまれた真鍮の作品では、そこに映し込まれる歪んだ周囲の像(自分や他の観客達の姿など)さえも、造形に生気を与え、作品の移ろいゆく表情の一部として機能する。
 それに陰影。恐らく照明の僅かな位置のズレさえ鋭敏に影響している筈だ。だから、もし作品が別の場所に移動されてしまったら、それはもうぼくが今日見た作品とはまるで違う風に見えるだろう。その証拠に図録を確認すると、それは違う場所で撮影されたものらしく、ぼくが見たものとはまるで雰囲気が変わってしまっている。そしてぼくは図録よりも、自分の肉眼で見た像の方が遥かに優れているとさえ信じ込んでしまう。

 そう、彫刻作品が面白いのは、自分の好みのアングルを自分で探し出して鑑賞できることだというのも、ぼくにとっては大きな理由のひとつである。そしてそれはたぶん、他の客達も同じらしい。みんな作品の回りを少なくとも一周はしてみないと気が済まないようなのだ。こういう行動はとても面白いと感じた。とりあえず最低でも一周はしない限り、作品を見た気にならないというのは、やはり立体作品ならではのことだ。隠れた面、見えない面への好奇心を掻き立てられるのだ。
 が、それでも皆(これは絵画展でも同じだが)かなり足早に皆過ぎ去ってしまう。あまり長々と一箇所に立ち止まるようなことはない。決して空いていたわけではないが、それほど混雑していたわけでもない。充分立ち止まるゆとりはあったのに。どうしてみんなあんなせっかちなんだろう。
 そこでふと思った。なぜわざわざ美術館に彫刻を見に来たのだろうかと。もちろんこれはぼく自身のことも含むわけだが、もしこれらの作品が美術館ではなく街なかにさりげなく設置されていたら、果たしてこうまで注視することがあるだろうか。恐らく一瞬目を止めるか止めないかで、そのまま通り過ぎてしまうのではないだろうか。
 見るというのは実は結構意識的な行為なのであり、普段人間の目は(あるいは脳および視覚神経系は)見ようと思う物以外は見えないようにできている。情報は常に何らかのフィルターを通して取捨選択されている。自分の行動にとって重要度の低いものにはあまり注意を払わずにすむようになっているのだ(さもなければ、目に入る物全てについていちいち同様に扱っていたら莫大な量の情報を常に処理しなければならないことになる)。
 したがって、街なかの彫刻というのは、大部分の人間にとって単なる目印以上のものではないように思えるのだが、どうだろう。今までぼくは、街なかの彫刻をしげしげと鑑賞し、観察している人など、殆ど見かけたことがない。全くいないわけではないだろうけれど、そのような光景は非常に稀だ。──まあこれは、イサム・ノグチ展とは関係のない、脱線した思考。

 特に印象に残った作品をいくつか、備忘のために挙げておこうと思う。

 まずは「エイジ」。この作品こそまさしく、見る角度によって劇的に表情を変える造形の代表だ。色・質感・陰影・輪郭がまるで違っているのだ。あまりにも面白くて、かなりしつこく位置を変えながら眺めていたが、全く飽きない。
 その表情の複雑さゆえに、この作品はきっと違う場所では全く違う表情を身に纏うだろう。図録に掲載されている写真は、これもまた全く別物とでも言えるような雰囲気になっていて、肉眼で見たものと色も陰影も全く違っている(もちろんそれは写真のせいではない)。この作品は、ただこのひとつだけで、様々な多様性と変容を持った完全な世界として成立している。
 正直言って、この作品に触りたくてたまらなかったのだが、誰も触れる者がいなかったので、つい遠慮してしまった。でも、ああいう展示の仕方なら、もしかして触れてもよかったのかもしれない。監視員に確認してみればよかったと、ちょっと悔やんでいる。

 それから「この場所」。これは静謐な宇宙だ。敷かれた石の深い存在感と、卵形のくぼみとが、「この場所」に強い重力を齎し、特異点たらしめている。抽象作品においては、ぼくはあまりタイトルを気にしないようにしている(批評家ではないので、作品の解明・解題・分析なんぞ、どうでもいいのである)のだが、この作品だけは、その迫ってくる存在感と題名が、感覚的に完全に符合してしまった。他のタイトルなど全く有り得ないと思えるほどに。
 中央のくぼみにはきっと、見えない卵が乗っているのだ。その重みで石はくぼんでいる。または、見えない卵は既に孵化してしまった後かもしれない。その卵から生まれ出てきたのは無論、この我々の宇宙なのだ。

 「エナジー・ヴォイド」。今回の展示の目玉作品らしい。高さ3.6mとあるが、数値以上に大きく感じる。吹き抜けのホールに展示してあったのだが、夕陽が差し込んで、この作品を照らしだすのが美しかった。陽光の中でこそ映える作品。巨大なカラビナのようにも、あるいは数字のゼロのようにも、そして作品が捩れているせいで見る角度によっては数字の8(縦に起き上がった無限大のマークだ。それに古代日本でも8は多数の意味だったし)のようにも見える。黒々として、適度に有機的で適度に幾何学的な形態の、一風変わったモノリス(厳密には一枚岩という表現は誤りかもしれないが、その象徴性において「2001年宇宙の旅」のあのモノリスのような、という意味で)のようにも思えた。

 「無言の歩み」。作品の展示されている空間の奥行きとシンメトリが、奇妙に印象深かった。この作品は、たぶん、それが置かれる空間を選ぶのだろう。展示の仕方がうまいなと思った(凝っているという意味ではないが)。作品自体の、面のテクスチャと遠近を変え、微妙にシンメトリをずらした構成が、展示空間の丁度よいボリューム(飾り気のない、奥行きのある直方体で、作品にとって広くも狭くもない絶妙のマッス)によって活かされていると思った。

 以上が今回のマイ・ベスト・スリーだが、他にも、「足のような木」「レダ」「ミラー」「不思議な鳥」「化身」「フィギュア・イマージング」「メッセンジャー2B」「身ごもった鳥」などなど興味深いものが多数あった。

 そうそう、それから「グレゴリー」。ユーモラスな形状の作品だが、この名前はカフカの『変身』の主人公、あのグレーゴル・ザムザの名前から取ったのだそうな。構成部品の組み合わせによって違う形態に「変身」するのだとか。ふむふむ。

 というわけで、冒頭にも書いたとおり、とにかく楽しんだのだった。

東京都現代美術館
MUSEUM OF CONTEMPORARY ART, TOKYO

Tail-Lagoon @ 23:59   |   PageUp

ベルナール・ビュフェ展 »

 電車の吊り広告のピエロの絵が印象的だったので『ベルナール・ビュフェ展』を見に行ってきた。ビュフェについての予備知識は全くなし。その特徴的な黒く太い輪郭線の故、コマーシャルアートを予想していたのだが、実際は殆どが油彩のファインアート。新鮮な驚きが心地よい。無知でよかった。
 で、ビュフェの絵は、結構気に入ってしまったのだが、しかし、ぼくの評価はかなり間違っているようである。なぜなら、後で買い求めた鑑賞ガイドには「虚無」「孤独」「悲惨」などの暗い単語が並んでいるのだが、ぼく自身が絵から受けた印象は非常にユーモラスで可笑しいものだったからだ。うん、確かにね「虚無」や「孤独」を感じ取れないわけではないよ、でもその表現方法はとてもユニーク(唯一無二という意味だ)でユーモラスだと思う。例えば、カフカの作品が暗く重たい主題を負いつつもある種の軽やかさとユーモアを併せ持つように、ビュフェの作品にも軽さやユーモアがあるように感じるんだよね。そんな感想を持ったのはぼくだけだろうか。

Bernard Buffet
http://museebernardbuffet.com/

ビュフェ美術館
http://www.buffet-museum.jp/

損保ジャパン東郷青児美術館 ベルナール・ビュフェ展
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/

Tail-Lagoon @ 23:59   |   PageUp