2008.05.02 (金)
このブログを始める時、これからはネット上にストック可能な情報はすべてネット上に置いてしまおうと考えていると書いた。
まとまったテキストならこのブログに記事にしておけばいいし、単純なメモなどは Googleノートを利用する。
といったあたりから始めて、さらにいろいろ見ていると、最近のWebアプリは本当に凄いことになっている。
Google Products だけでも、メールやスケジュール(カレンダー)は当然のこと、ワープロ、表計算まであり、しかもそれらすべてが無料で使える。Googleマップや Google Earth に騒いでいたのが随分昔のように思える。
Yahoo の Flickr も、システムとしての驚きはないものの、そこにアップされ続ける膨大な写真のなかには、そんじょそこらの写真集などよりよほど美しい作品が非常に多く、見ていて飽きない。まだ .jp のIDでは使えないようなので、.com のIDを取るのが面倒くさく、今のところ見ているだけなのだが。持っている画像をすべてオンラインでストックして、どこからでも取り出せるなんて、使いようによっちゃ結構便利だ(結局使いみちによるわけだが。今のところ自分にはあんまり差し迫った用途はないんだよなあ)。
オープンソースのデスクトップアプリも凄いことは凄いが、最近はもうオンラインで、インストール不要で、様々なソフトが使えるようになってきた。つい最近 Zoho というのを知ったのだが、ここでは通常使用されているビジネス系のアプリが殆どすべて揃っているといっていいくらい充実している。まだすべてが日本語化されているわけではないようだが、それも時間の問題だろう。データベースソフトもあるので、何か有効な使いみちがないか今考えているところ。
そういえば、あの Adobe も Potoshop のWeb版(Photoshop Express)を公開してたなあ。まだ試してみてはいないけど。
本当にWebブラウザさえあれば、他のソフトは何にも要らないという時代になってきた。オンラインで無料で使えるのだから、ソフトを買う必要もないし、アップデートやバージョンアップの煩雑さからも開放される。競合するサービスが増え続ければ、ユーザの確保のためにはより質の高いものを提供する必要が出てくるだろうから、今後ますます凄いことになってくるだろう。これでは、今まで有料デスクトップアプリを作っていた企業が戦々恐々とするのもあたりまえか。
しかし一方、ここまでいろんなものが無料で使えるとなると、ありがたいことはありがたいが、供給する側の収益はどうするのだろうと余計な心配もしてしまう。まさかどれもこれも広告で収益を賄おうとし始めるんじゃないだろうな。どこもかしこも広告だらけなんてことになったら、さすがにうんざりだ。(そういえば、筒井康隆だったか、広告が氾濫する未来社会を描写した短編小説があった気がする。たぶんもう四半世紀も昔に読んだもので、殆ど覚えちゃいないんだけど)
さて、自分のことに話題を引き戻せば、データのオンライン化計画は、まだまだ途上である。たとえばこのブログ。色んなテキストをブログに放り込むといっても、ブログって基本的に時系列のストックになるので、過去のデータをどの日時の記事とするのが妥当なのか、結構気になって躊躇したりもするんだよね。ウェブページ作成機能もあるので、時系列から開放してそちらを使った方がいいのかなとか、ちょっと整理方法を考えている。
カテゴリー: WEB | タグ: SaaS, オンラインサービス
Tail-Lagoon @ 16:46
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2008.04.23 (水)
18世紀に始まった西洋産業革命が19世紀にもたらしたもの──それは、世界的な規模の拡大と時間の同一化である。資源の短時間大量輸送が可能になった時代では、産業・経済空間の拡大と時間の同期は必須となる。19世紀において、有史以来初めて世界がひとつになった(なろうとした、あるいは、ひとつの土俵にまとまった)のだ──産業・経済システムとして──それもかなり強引に、強制的に。
それまではせいぜい1時間程度の単位だった人間の生活が、分・秒単位で細かく刻まれるようになったのは、機械化された工場の稼働がその発端ではないだろうか。人間の労働力が生産システムの一部として機械と同列に組み込まれ、操業開始から終了時刻まで、一斉に、全く同時に、同一のペースで進行させねばならなかったために、人間の行動時間の単位を分・秒単位まで細分化する必要が生じたのだと思う。大量生産のための大規模なシステムを管理するには、地域差・個体差等の差異を無視し、可能な限りすべてを同時進行させたほうが都合がいい筈だ。
20世紀を概括して戦争の世紀と呼び習わすのは、誰が始めたことなのだろう。だが確かに、それ以前は局所的にしか行われていなかった戦争を、世界規模にまで押し拡げたのはこの世紀だ。世紀の前半部は、二度に亙る世界大戦がその時期の最も重大な事件として史的記憶を占領し、後半部はこの世界的な戦禍の後遺症が国際情勢に大きな暗雲を落とした。そして21世紀の現在においてもいまだ完全に解決したとは、到底言えない状況にある。
では19世紀は、この世界戦争を準備した期間だったのだろうか。たぶんそうだ。産業革命によって、西洋は他地域とは桁違いの強大な技術力を手に入れた。そして西洋は、その圧倒的な力をもって、全世界を呑み込もうとした。蒸気機関の発明、鉄道と蒸気船による陸路・海路の整備(時間短縮・大量輸送の高効率化)が、全世界を一気に狭くし、堅固に結びつけてしまった。電信技術の発明による情報伝達速度の向上も、この流れに拍車をかけたことを忘れてはなるまい。こうして世界が初めてひとつになった。政治的に、ではなく、時間的・空間的にまとまったのだ──システムとして。
ひとつになってしまった世界では、どこか一部の場所で起きた出来事が全体に伝播する速度は、従来とは比べ物にならないほど速い。その出来事がどのような種類のものであろうとも、恐ろしい速度で蔓延する。──たとえその出来事が戦争だとしても、それがすぐさま世界中に拡散するのは当然避けられまい。経済・産業システムを世界規模に拡大した19世紀こそ、やはり世界規模にならざるを得ない戦争システムの準備期間だったといえよう。
Tail-Lagoon @ 19:28
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Tail-Lagoon @ 19:00
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2008.04.16 (水)
4/14 天気が良かったので、自転車で鷹の台の松明堂ギャラリーへ。
鉄板をプラズマ溶断で切り抜いた望月通陽の作品が展示されている(「鉄」の展示は 4/20 まで)。
望月通陽氏の作品は、光文社古典新訳文庫のカバーの、あの軽妙な一筆書きの絵が印象的。あのシリーズの文庫が家に数冊あるのだが、ついついその一筆書きを指でトレースしてしまう。そうすると、その線のあまりに自由奔放な動きの不思議さを体感できて、本当に面白いのだ。えっ、こっからこっちへ線が流れるの、ええっ、どうしてこんな順序で形ができてゆくの、おおぉーっ!? と思わず指先のジェットコースター的スリルを味わうことになる。楽しいからやってごらんなさい。
という遊びはやっていたのだが、実は望月通陽という名前を意識したことはなかった。『風の旅人』で教えてもらうまでは。
松明堂ギャラリーに展示されている作品も、とても楽しく面白かった。切り抜かれた一枚の板の自由奔放な形は、眺めているだけで何ともいえない気持ちよさと解放感がある。思わずニコニコしてしまうような、楽しい気分。
重く・固く・冷たい鉄という素材が、軽やかで・柔らかく・温かい何ものかに変貌している、その不思議なギャップ。
錆が描き出す風味と質感が、作品への親近感を齎す(ヤスリ掛けして錆止めを落とし、腐食剤で錆を促進し、丁度いいところで再度錆止め処理を施してあるそうだ)。思わず触ってみたくなる。触ってもいい作品を教えてもらい、切断面に触れてみたが、その凹凸がとても心地よい。作品の輪郭は、なめらかではなく、ギザギザしている(溶断なので鋭くはない)のだが、それがまたいいのだ。ギザギザが形の存在感をより確かなものにし、かつ浮遊するような軽やかさと柔らかさも感じる(凹凸が、人間が作ったものとして、手の跡の確かな感触を残しているせいだ)。
作品そのものだけでなく、それが生み出す影もまた面白い。複数のライトが作品を照らしているので、白壁に影が落ちているのだが、その影の淡くぼやけた形が幻想味を帯びて、不思議な懐かしさのようなものを感じるのだ。空を自在に飛び回ることのできる世界へといざなわれる。だからきっと、大人よりも子供の方が、もっと楽しめるに違いない。そんな展示だった。
Tail-Lagoon @ 13:06
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3/31 『泥の川』、4/1 『埋もれ木』、4/2 『眠る男』を観た。
『眠る男』──縁側の奥の座敷、ただ布団の中で寝ているだけの男のあの姿が、どうしてあのように心に染み入るような存在感を感じさせ、向こう側の時間を想起させるのだろう。ただ見ているだけで、ほかにはもうストーリーも台詞も要らないとさえ思ってしまう、完成された映像。水車小屋、海辺の定食屋、山小屋など、建物にまつわるカットが、ぼくには印象深かった。
それにしても、記憶というのは不思議なもので、2週間ほど経た昨晩のこと、不意に、老婆が複数の家電のリモコンに色テープを貼って区別していたことを思い出した。ぼくは、それが何の記憶なのかまるでわからず、首を捻ったのだが、今こうして『眠る男』のことを思い返し書いているうち、昨夜のあれがこの映画のワンシーンだったことに思い当たったのだ。役所広司扮する電気屋が、アンテナ修理のため老婆の家を訪れたというエピソード。映画を観ている時は、特に何とも思わなかったのだが、どうしてそれが昨晩唐突に蘇ったのだろう? まあ映画に限らず日常の様々なことに関して、その時は気にもかけていなかったことが時間を経て不意に思い出される(重要なことは忘れているくせに、だ)というのは、ぼくにはよくあることだ(皆そうなんだろうか?)。そしてそんな時はいつも、なぜ自分の記憶が、自分の思うように管理・保管できず、思い掛けない再生を試みるのか、つくづく不思議に思うのである。あのリモコンのシーン、あれが自分にとっていったいどのようなインパクトを持っていたというのだろうか? 自分でもさっぱりわからない。しかしそういうわからないものが、記憶の深層に常に刻み込まれているということだけは確かだ。
『泥の川』は、味わい深い映画だった。何とも切ない映画でもあった。自分の子供の頃の記憶とも、どこかで重なり合う部分があって、それが言いようのない懐かしい寂寥感を伴って、観ていて本当に切なくなる。感傷というよりは、どこか身体の奥底に潜んでいた生存の悲哀──それは子供ながらの甘い悲哀だが、しかし子供だったからこそ感じていた、生きているということの本質に触れている不可思議で切実な悲哀──どこか失われてしまった筈の、なくしたと思い込んでいた場所からの、その蘇生に立ち会っているような感覚だった。
『埋もれ木』は、最初観た時のあの感触を確かめたくて、もう一度観たわけだが、どこか異質な(最も遠く、それでいて最も近く親しい)内部に誘い込まれるような奇妙な夢現つの状態になるのは、やはりただごとではないと思った。またいつか体験してみたい。ただごとでない出来事は、遭遇し体験する以外、他に再現の方法はないのだから。そもそも、あまりに映像的な感動の、その感想を言葉でここに記録しておこうなどとは思わない。上にも書いたが、記憶は定着させようとしてもうまくいかない。ただ奥底に沈み込むに任せ、いつか再び(思いがけず)浮上してくるのを待つのみである。
Tail-Lagoon @ 13:04
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