情報のストック (2) Webアプリのことなど »

Google ProjectFlickrZohoPhotoshop Express

 このブログを始める時、これからはネット上にストック可能な情報はすべてネット上に置いてしまおうと考えていると書いた
 まとまったテキストならこのブログに記事にしておけばいいし、単純なメモなどは Googleノートを利用する。
 といったあたりから始めて、さらにいろいろ見ていると、最近のWebアプリは本当に凄いことになっている。

 Google Products だけでも、メールやスケジュール(カレンダー)は当然のこと、ワープロ、表計算まであり、しかもそれらすべてが無料で使える。Googleマップや Google Earth に騒いでいたのが随分昔のように思える。

 Yahoo の Flickr も、システムとしての驚きはないものの、そこにアップされ続ける膨大な写真のなかには、そんじょそこらの写真集などよりよほど美しい作品が非常に多く、見ていて飽きない。まだ .jp のIDでは使えないようなので、.com のIDを取るのが面倒くさく、今のところ見ているだけなのだが。持っている画像をすべてオンラインでストックして、どこからでも取り出せるなんて、使いようによっちゃ結構便利だ(結局使いみちによるわけだが。今のところ自分にはあんまり差し迫った用途はないんだよなあ)。

 オープンソースのデスクトップアプリも凄いことは凄いが、最近はもうオンラインで、インストール不要で、様々なソフトが使えるようになってきた。つい最近 Zoho というのを知ったのだが、ここでは通常使用されているビジネス系のアプリが殆どすべて揃っているといっていいくらい充実している。まだすべてが日本語化されているわけではないようだが、それも時間の問題だろう。データベースソフトもあるので、何か有効な使いみちがないか今考えているところ。

 そういえば、あの Adobe も Potoshop のWeb版(Photoshop Express)を公開してたなあ。まだ試してみてはいないけど。

 本当にWebブラウザさえあれば、他のソフトは何にも要らないという時代になってきた。オンラインで無料で使えるのだから、ソフトを買う必要もないし、アップデートやバージョンアップの煩雑さからも開放される。競合するサービスが増え続ければ、ユーザの確保のためにはより質の高いものを提供する必要が出てくるだろうから、今後ますます凄いことになってくるだろう。これでは、今まで有料デスクトップアプリを作っていた企業が戦々恐々とするのもあたりまえか。

 しかし一方、ここまでいろんなものが無料で使えるとなると、ありがたいことはありがたいが、供給する側の収益はどうするのだろうと余計な心配もしてしまう。まさかどれもこれも広告で収益を賄おうとし始めるんじゃないだろうな。どこもかしこも広告だらけなんてことになったら、さすがにうんざりだ。(そういえば、筒井康隆だったか、広告が氾濫する未来社会を描写した短編小説があった気がする。たぶんもう四半世紀も昔に読んだもので、殆ど覚えちゃいないんだけど)

 さて、自分のことに話題を引き戻せば、データのオンライン化計画は、まだまだ途上である。たとえばこのブログ。色んなテキストをブログに放り込むといっても、ブログって基本的に時系列のストックになるので、過去のデータをどの日時の記事とするのが妥当なのか、結構気になって躊躇したりもするんだよね。ウェブページ作成機能もあるので、時系列から開放してそちらを使った方がいいのかなとか、ちょっと整理方法を考えている。

Tail-Lagoon @ 16:46   |   PageUp

近・現代についてのノート »

 18世紀に始まった西洋産業革命が19世紀にもたらしたもの──それは、世界的な規模の拡大と時間の同一化である。資源の短時間大量輸送が可能になった時代では、産業・経済空間の拡大と時間の同期は必須となる。19世紀において、有史以来初めて世界がひとつになった(なろうとした、あるいは、ひとつの土俵にまとまった)のだ──産業・経済システムとして──それもかなり強引に、強制的に。

 それまではせいぜい1時間程度の単位だった人間の生活が、分・秒単位で細かく刻まれるようになったのは、機械化された工場の稼働がその発端ではないだろうか。人間の労働力が生産システムの一部として機械と同列に組み込まれ、操業開始から終了時刻まで、一斉に、全く同時に、同一のペースで進行させねばならなかったために、人間の行動時間の単位を分・秒単位まで細分化する必要が生じたのだと思う。大量生産のための大規模なシステムを管理するには、地域差・個体差等の差異を無視し、可能な限りすべてを同時進行させたほうが都合がいい筈だ。

 20世紀を概括して戦争の世紀と呼び習わすのは、誰が始めたことなのだろう。だが確かに、それ以前は局所的にしか行われていなかった戦争を、世界規模にまで押し拡げたのはこの世紀だ。世紀の前半部は、二度に亙る世界大戦がその時期の最も重大な事件として史的記憶を占領し、後半部はこの世界的な戦禍の後遺症が国際情勢に大きな暗雲を落とした。そして21世紀の現在においてもいまだ完全に解決したとは、到底言えない状況にある。

 では19世紀は、この世界戦争を準備した期間だったのだろうか。たぶんそうだ。産業革命によって、西洋は他地域とは桁違いの強大な技術力を手に入れた。そして西洋は、その圧倒的な力をもって、全世界を呑み込もうとした。蒸気機関の発明、鉄道と蒸気船による陸路・海路の整備(時間短縮・大量輸送の高効率化)が、全世界を一気に狭くし、堅固に結びつけてしまった。電信技術の発明による情報伝達速度の向上も、この流れに拍車をかけたことを忘れてはなるまい。こうして世界が初めてひとつになった。政治的に、ではなく、時間的・空間的にまとまったのだ──システムとして。

 ひとつになってしまった世界では、どこか一部の場所で起きた出来事が全体に伝播する速度は、従来とは比べ物にならないほど速い。その出来事がどのような種類のものであろうとも、恐ろしい速度で蔓延する。──たとえその出来事が戦争だとしても、それがすぐさま世界中に拡散するのは当然避けられまい。経済・産業システムを世界規模に拡大した19世紀こそ、やはり世界規模にならざるを得ない戦争システムの準備期間だったといえよう。

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Tail-Lagoon @ 19:28   |   PageUp

近・現代──フランス革命以後 »

1789〜1802
フランス革命。
1804
ナポレオン、フランス皇帝となる。
1805
トラファルガーの海戦。
1815
ワーテルローの戦い。ナポレオン、英軍に敗北。ウィーン会議終了。
1821〜29
ギリシア独立戦争。
1839〜42
アヘン戦争、清朝敗北、南京条約。
1850〜64
清、太平天国の乱。
1852
フランス共和制崩壊。ナポレオン3世即位。
1854
日米和親条約。
1854〜1856
クリミア戦争。
1856
第二次アヘン戦争。
1858
日米修好通商条約。
1859
ルーマニア公国成立。
1861
イタリア王国成立。
1867
オーストリア=ハンガリー二重帝国成立。
1868
日本、明治維新。
1870〜71
普仏戦争。
1894〜95
日清戦争。下関条約により、日本が台湾を獲得。
1904
日露戦争。05、講和条約により、日本は韓国に対する指導権・監督権を得る。
1905
ロシア、血の日曜日事件、第一革命。
1910
日、韓国を併合。
1911
辛亥革命、清朝打倒。
1912
中華民国の成立。孫文が臨時大統領就任、同年中に袁世凱が交代。孫文、国民党結成。
1912〜13
バルカン戦争。
1913
中、袁世凱が総統就任、国民党を解散させる。
1914〜18
第一次世界大戦。18、ドイツの降伏により終結。トルコは独側で参戦し、領土を喪失。日本は連合国側で参戦し、太平洋と中国における権益を入手。
1919
ヴェルサイユ条約、オーストリア=ハンガリー二重帝国解体、ドイツ領土縮小、賠償金が課される。国際連盟創設。
1929
米、大恐慌。
1931
満州事変。
1932
日本、満州国成立宣言。
1933
ドイツ、ヒトラーが首相就任。ナチス政権下で再軍備に着手。
1936
ロシア、スターリンによる大粛清開始。
日独防共協定。
1937
蘆溝橋事件、日中戦争。
1938
ドイツ、オーストリア併合。ナチスによるユダヤ人弾圧開始。
1939
独ソ不可侵条約。スペイン、フランコ勝利により内乱終了。第二次世界大戦の始まり。
1940
日独伊三国同盟。
1941
真珠湾攻撃。
1942
ミッドウェイ海戦、日本敗北。
1945
米軍、沖縄上陸、広島・長崎に原爆投下。第二次世界大戦終了。米ソによる朝鮮分割。国際連合創設。冷戦の開始。
1947
インド、東西パキスタン分離。
1947〜49
ギリシア内戦
1948
第一次アラブ=イスラエル戦争。イスラエル国家成立。インド、ガンジー暗殺。インド=パキスタン戦争終結。
1949
NATO(北大西洋条約機構)創設。
1950〜53
朝鮮戦争。
1955
ワルシャワ条約機構成立。
1957
ローマ条約でEEC創設。
1958
第一次レバノン内戦。
1961
東独、ベルリンの壁構築。ソ連、ガガーリンが人類初宇宙飛行。
1962
キューバ危機。
1966
中、毛沢東主義者による文化大革命。
1967
第三次中東戦争(六日間戦争)。
1968
チェコスロヴァキア、プラハの春(民主化運動)。
1969.7.20
アポロ11号、人類初の月面着陸(着陸場所は「静かの海」)。ニール・アームストロング船長の言葉「これは一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ。」 “That’s one small step for a man, one giant leap for mankind.”
1973
第四次中東戦争。オイルショック(第一次石油危機)。
1974
トルコ、キュプロス侵略、島の半分を占領。
1975
カンボジア、クメール・ルージュによるプノンペン占領、第一次内戦は終了するが、ポル・ポトによる大虐殺時代が始まる。
レバノン、パレスティナ難民大量流入、第二次内戦。
1976
中、毛沢東死去。ヴェトナム統一、ヴェトナム社会主義共和国。シリア、レバノン侵攻。
1979
ソ連軍、アフガニスタン侵攻。
1980
イラン=イラク戦争勃発(〜88)。
1985
ソ連、ゴルバチョフ書記長就任、ペレストロイカ(改革)に着手。
1988
イラン=イラク戦争終結。イラク、化学兵器によるクルド人攻撃。
1989
6月、中国、天安門事件。
11月、ベルリンの壁崩壊。
1990
日本、バブル崩壊。東西ドイツ統一。イラク、フセインによるクウェート侵略。
1991
ソ連解体。ワルシャワ条約機構解散。イラク戦争、多国籍軍(米が主力)によるクウェート解放。
1993
チェコスロヴァキア分離。北朝鮮、核拡散防止条約脱退宣言。
1997
英から中への香港返還。
1998
インド、パキスタンの核実験。北朝鮮、ロケット弾発射、日本上空を越え太平洋に落下。
2000
韓国、北朝鮮初の南北首脳会談。
2001.09.11
米、同時多発テロ。

Tail-Lagoon @ 19:00   |   PageUp

松明堂ギャラリー 望月通陽展「いのちのかたちたち vol.4 鉄」 »

 4/14 天気が良かったので、自転車で鷹の台の松明堂ギャラリーへ。
 鉄板をプラズマ溶断で切り抜いた望月通陽の作品が展示されている(「鉄」の展示は 4/20 まで)。

 望月通陽氏の作品は、光文社古典新訳文庫のカバーの、あの軽妙な一筆書きの絵が印象的。あのシリーズの文庫が家に数冊あるのだが、ついついその一筆書きを指でトレースしてしまう。そうすると、その線のあまりに自由奔放な動きの不思議さを体感できて、本当に面白いのだ。えっ、こっからこっちへ線が流れるの、ええっ、どうしてこんな順序で形ができてゆくの、おおぉーっ!? と思わず指先のジェットコースター的スリルを味わうことになる。楽しいからやってごらんなさい。
 という遊びはやっていたのだが、実は望月通陽という名前を意識したことはなかった。『風の旅人』で教えてもらうまでは。

 松明堂ギャラリーに展示されている作品も、とても楽しく面白かった。切り抜かれた一枚の板の自由奔放な形は、眺めているだけで何ともいえない気持ちよさと解放感がある。思わずニコニコしてしまうような、楽しい気分。
 重く・固く・冷たい鉄という素材が、軽やかで・柔らかく・温かい何ものかに変貌している、その不思議なギャップ。
 錆が描き出す風味と質感が、作品への親近感を齎す(ヤスリ掛けして錆止めを落とし、腐食剤で錆を促進し、丁度いいところで再度錆止め処理を施してあるそうだ)。思わず触ってみたくなる。触ってもいい作品を教えてもらい、切断面に触れてみたが、その凹凸がとても心地よい。作品の輪郭は、なめらかではなく、ギザギザしている(溶断なので鋭くはない)のだが、それがまたいいのだ。ギザギザが形の存在感をより確かなものにし、かつ浮遊するような軽やかさと柔らかさも感じる(凹凸が、人間が作ったものとして、手の跡の確かな感触を残しているせいだ)。
 作品そのものだけでなく、それが生み出す影もまた面白い。複数のライトが作品を照らしているので、白壁に影が落ちているのだが、その影の淡くぼやけた形が幻想味を帯びて、不思議な懐かしさのようなものを感じるのだ。空を自在に飛び回ることのできる世界へといざなわれる。だからきっと、大人よりも子供の方が、もっと楽しめるに違いない。そんな展示だった。

 松明堂ギャラリー »

Tail-Lagoon @ 13:06   |   PageUp

「小栗康平全映画」を観る (2) »

 3/31 『泥の川』、4/1 『埋もれ木』、4/2 『眠る男』を観た。

 『眠る男』──縁側の奥の座敷、ただ布団の中で寝ているだけの男のあの姿が、どうしてあのように心に染み入るような存在感を感じさせ、向こう側の時間を想起させるのだろう。ただ見ているだけで、ほかにはもうストーリーも台詞も要らないとさえ思ってしまう、完成された映像。水車小屋、海辺の定食屋、山小屋など、建物にまつわるカットが、ぼくには印象深かった。

 それにしても、記憶というのは不思議なもので、2週間ほど経た昨晩のこと、不意に、老婆が複数の家電のリモコンに色テープを貼って区別していたことを思い出した。ぼくは、それが何の記憶なのかまるでわからず、首を捻ったのだが、今こうして『眠る男』のことを思い返し書いているうち、昨夜のあれがこの映画のワンシーンだったことに思い当たったのだ。役所広司扮する電気屋が、アンテナ修理のため老婆の家を訪れたというエピソード。映画を観ている時は、特に何とも思わなかったのだが、どうしてそれが昨晩唐突に蘇ったのだろう? まあ映画に限らず日常の様々なことに関して、その時は気にもかけていなかったことが時間を経て不意に思い出される(重要なことは忘れているくせに、だ)というのは、ぼくにはよくあることだ(皆そうなんだろうか?)。そしてそんな時はいつも、なぜ自分の記憶が、自分の思うように管理・保管できず、思い掛けない再生を試みるのか、つくづく不思議に思うのである。あのリモコンのシーン、あれが自分にとっていったいどのようなインパクトを持っていたというのだろうか? 自分でもさっぱりわからない。しかしそういうわからないものが、記憶の深層に常に刻み込まれているということだけは確かだ。

 『泥の川』は、味わい深い映画だった。何とも切ない映画でもあった。自分の子供の頃の記憶とも、どこかで重なり合う部分があって、それが言いようのない懐かしい寂寥感を伴って、観ていて本当に切なくなる。感傷というよりは、どこか身体の奥底に潜んでいた生存の悲哀──それは子供ながらの甘い悲哀だが、しかし子供だったからこそ感じていた、生きているということの本質に触れている不可思議で切実な悲哀──どこか失われてしまった筈の、なくしたと思い込んでいた場所からの、その蘇生に立ち会っているような感覚だった。

 『埋もれ木』は、最初観た時のあの感触を確かめたくて、もう一度観たわけだが、どこか異質な(最も遠く、それでいて最も近く親しい)内部に誘い込まれるような奇妙な夢現つの状態になるのは、やはりただごとではないと思った。またいつか体験してみたい。ただごとでない出来事は、遭遇し体験する以外、他に再現の方法はないのだから。そもそも、あまりに映像的な感動の、その感想を言葉でここに記録しておこうなどとは思わない。上にも書いたが、記憶は定着させようとしてもうまくいかない。ただ奥底に沈み込むに任せ、いつか再び(思いがけず)浮上してくるのを待つのみである。

 「埋もれ木」オフィシャルサイト »

Tail-Lagoon @ 13:04   |   PageUp