2010.07.02 (金)
a = b とする
この条件により、下記の2つの式は自明である
a2 = a2 …(1)
b2 = ab …(2)
そこで、式(1) から式(2) を引く
a2 – b2 = a2 – ab
両辺を因数分解して
(a+b)(a-b) = a(a-b)
両辺を (a-b) で割ると
a+b = a
両辺から a を引くと
b = 0
両辺を b で割ると
1 = 0
となる…
1 を大きな数で割っていくと、商は限りなく 0 に近づく。
したがって極限では
1/∞ = 0 …(3)
両辺に∞を掛けると
1 = 0
となる…
ちなみに (3) の式は
1/0 = ∞
と変形することもできる。
要するに 0 で割ると無限大。
※ 念のため書いておくと、0 の除算はルール違反なので、[1] も [2] も不正。中高生のみなさん、だまされないように。もっとも、一番だまされやすいのは、もう何年も数学から離れてしまったぼくのようなおじさんたちかもしれない(おばさんたちは、はなから数学に興味がないからだまされようがない)。
Filed under: other | タグ: Kipple, 無限
Tail-Lagoon @ 01:51
|
PageUp
2010.02.04 (木)
『風の旅人』vol.39 を読んだ、というか見た。もちろん文章も読んだけれど、でもいつも本当に驚くのは写真。まことに凄い。凄いんだけど、凄すぎて、しかもそれがいつものことなので、凄さに慣れっこになってしまう、というか麻痺してしまう(なんと贅沢な)。が、今回は特に「ロダンの夢」(細江英公)に衝撃を受けた。割と最近、たまたまロダンを見たからだ。正確には去年12月初め頃か、西洋美術館で企画展を見たついでに……。そう、ロダンは常設されていて、もう見慣れすぎているくらい見ているのに、それでも訪れる度についつい見入ってしまう。特別好きというわけでもないのに、どうしても無視できない、見ずにはいられない、ぼくにとってロダン作品はこれまで常にそういう対象だった。そして、この『風の旅人』39号に衝撃を受けたわけは、写真に撮られたロダンは、自分の肉眼で見たロダンとは、全く違う表情を持っていたからである。……いや、全く違う、というのは嘘だ。ただ、むしろ、ぼくの凡庸な眼で見たロダンよりも、遥かに生々しい、得体の知れない圧倒的な力を持つロダンがそこにいた、というだけのこと。たぶん、ロダンの持つ力に、写真家の力が倍加されて、そのために、彫刻と写真という二重の体現が、ぼくの肉眼よりも遥かに濃密な視覚を生み出しているのだろう。──本当のところ、そういう理屈ではない気がするが、かといって他に言い表しようもない──そういえば、『風の旅人』Vol.5 でも別の写真家(増浦行仁)のロダンの写真に衝撃を受けたことを思い出す。ロダンの彫刻と写真とは、不気味に共振する何かがあるのだろうかと、ふと思った。
Filed under: other | タグ: Art, 彫刻, 感覚
Tail-Lagoon @ 23:53
|
PageUp
2010.02.02 (火)
僅かとはいえ、久し振りの積雪。通勤途中の電車内から窓外を見る。中央線の高架から見下ろす低層住宅街の屋根の広がり。窓が曇っていたせいもあって、雪で白く覆われた景色は、束の間、広大な雪原の幻をぼくに見せてくれた。一瞬のその幻がぼくにとっては、現実よりも遥かにリアルだった。
Tail-Lagoon @ 09:14
|
PageUp
2009.09.20 (日)
蝉が一匹、あちこちにぶつかり、もがきながら飛んでいるのを見かけた。周囲に仲間の鳴き声もなく、おそらくは子孫を残すのに失敗したことだろう。目覚めるのが遅すぎたのだ。既に夏は過ぎたのに、遅れてやってきた、最後の蝉。少し哀れだ。
Filed under: other | タグ: Kipple
Tail-Lagoon @ 16:06
|
PageUp
2009.08.27 (木)

ひとつの三角形は、無限の三角形に分割できる。

無限に分割した結果がこの三角形だ。これは1個の三角形ではなく、無限個の三角形なのである。
さらにまた、この無限の三角形の中から任意の1個を取り出し、同様の操作を加えれば、新たな無限個の三角形が生み出される。
無限は至る所に存在する。想像すると目眩がする。
Filed under: other | タグ: Kipple, 無限
Tail-Lagoon @ 07:53
|
PageUp
2009.01.01 (木)

新年おめでとうございます。
年賀状用に作成したオリジナルのイラストです。リアル年賀状をお送りできなかった多くの(日本中・世界中の)皆様、逆境の今年はチャンスの年です。実り多き一年になりますよう、お祈り申し上げます。
Filed under: other | タグ: graffiti
Tail-Lagoon @ 19:33
|
PageUp
2008.12.02 (火)
立川駅の周辺を歩いていると、奇妙なオブジェがあちこち目に付く。──いや、気づかずに通り過ぎる場合もままあるのだが、その気になって見回すと、結構見つかる。
それで、これらをひとつひとつ画像にして、サイトで一覧できたら面白いかもな、などと考えていたのだが、だいたいぼくが思いつくようなことは、既に誰かの手によって実現されている。
それがこのページ ⇒ ファーレ立川 作品リスト
本当は、サムネイルで並べた方が、もっと楽しいのにね。でも、こんなにあったんだ……まだ見たことがない(気づかなかった)ものもある。
↓ こちらはもう数年前に自分で撮ったもの

Filed under: other | タグ: Art, 彫刻, 街
Tail-Lagoon @ 18:53
|
PageUp
2008.10.05 (日)
久しぶりに落書きをしました。もしかしたら10年か20年ぶりくらいかもしれません。何にも考えず、ただ手を動かしていくのは、なかなか気持ちのいい作業です。ただ、できあがったものは、ちょっと(かなり?)不気味です。いったい何なのか、よくわかりません(今ふいに、エデンの園、という言葉が浮かんできました)。人間というのは、不気味ですね。内部に何を抱え込んでいるのか、知れたもんじゃありません。得体のしれないものがたくさん詰まっているんでしょうね、きっと。
Filed under: other | タグ: graffiti
Tail-Lagoon @ 19:42
|
PageUp
2008.08.29 (金)



四つ折りノートPC Quarto です。折り畳んだ時のサイズは、15cm角の正方形、これは文庫本の長辺とほぼ同じ長さです。折り畳んだままでも、800×800ピクセルのマルチタッチディスプレイを操作していろんなことができるのですが、驚きは展開した時。2つ合わせて1600×800ピクセルと、大抵の作業には充分な大きさのマルチディスプレイと、ほぼフルサイズのキーボードが、瞬時に机上に出現するのです。今までのノートPCには必須のトラックパッドとボタンがないことに戸惑うかもしれませんが、マルチタッチのディスプレイを直接操作するので、必要ないのですね。USB2.0ポート、無線LANアダプタ、Bluetooth も内蔵していますから、機能も拡張性も充分ですね。
(※) とかなんとか書きましたが、これは実在する製品ではありません。全く架空のプロダクトです。でも、こんなのがあったら、使ってみたいと思いませんか?
Filed under: other | タグ: graffiti, 架空のプロダクト
Tail-Lagoon @ 18:57
|
PageUp
2008.06.16 (月)
だいたいイキモノってのは、ただ生き続けるということだけでも、ものすごくタイヘンなことなのであり、生きている間、生き延びるために生きてゆくことに必死だ。この「必死」という字、「必ず死ぬ」って書くくらいだから、まずたいがいは死んでしまうものなのだ。生き延びるということは、それほどすばらしい幸運に恵まれない限り困難なことであり、だからこそイキモノにとって、生存する以外のことはすべて些事でしかない。
ところが、ヒトというイキモノの、それもセンシンコクなどと呼ばれるところに住んでいる連中となると、そこでは高齢化社会なんてことになっていて、もはや長生きすることはアタリマエで当然なことになってしまっているのだ。
つまりセンシンコクのヒトというイキモノの大部分の個体にとっては、相当歳をとらないかぎりは、生き延びることは必死でもなんでもなく、些事にしかすぎなくなっているのだ。オイシイとかタノシイとかキレイとかカイテキなんてことが生きる上で恐ろしく重要な比重を占め、とにかくただただ生き延びるなんてのは、限りなく退屈で無意味な人生ということになってしまった!
もしも、ただ生き延びるというそれだけのことが、他のイキモノ同様にとんでもなく困難なことだったとしたら、きっとそれ以外のことを考える余裕なんてなくなるだろうし、そもそもボクも、こんなこと書いてる余裕なんて全然なくなるはずなのだ。
とはいっても、正直10年後に自分が生き延びていられる自信なんて、今はまったくないんだけどね。
Filed under: other | タグ: Kipple, 狂気
Tail-Lagoon @ 19:29
|
PageUp
2008.05.31 (土)
人生は、ざっと計算すると平均おおよそ3万日弱の日々の集積である。
このうち四分の一が睡眠だから、7,500日。
食事は八分の一として、3,750日。
排便時間や入浴時間は……?
ちりもつもればというが、集計すればどれも大きな時間になる。
しかし、1日の短さときたら、これは絶望的にあっという間だ。
Filed under: other | タグ: Kipple, 時間
Tail-Lagoon @ 10:34
|
PageUp
2008.05.28 (水)
今月上旬、2004年から使っていたレンタルサーバをやめ、別の業者に乗り換えた。
メリットは、
といったところ。ただ、安いなりに(料金のせいというわけではなかろうが)不安材料もあって、まだ20日足らずの間に、既に数回サーバの障害に遭遇している。しかもそのうち1回は、かなり致命的(サイトの表示が正常にできない)なものだった。……今後こういうことが起こらないよう期待したいのだが。
その点、旧サーバでは殆どそういった障害が起きた記憶がないから、かなり安定したサーバだったんだろうな。容量は同一料金で新プランができて、たしか 3GB くらいに増えていたから、これで DB が標準で使用できたら、特に不満はなかったんだけど。
でもまあ、経費削減とDB使用のために、すでに移行してしまったので、これからはこの新サーバとつきあっていくことになる。
Tail-Lagoon @ 11:38
|
PageUp
2008.05.09 (金)
それにしてもこのところ、関東地方で地震が多いな。
いよいよ大きいのがやってくるのか?
この前の関東大震災は1923年(大正12年)9月1日午前11時58分32秒に発生したそうだ。
その後80年以上、関東で大きな地震はない。
海外の地震研究者たちは、東京のことを「死を待つ都市」と形容しているらしい。
そろそろ大地震に備えた方がよいか?
何はともあれ、まずメガネとその予備を忘れずに!
メガネがないと、ぼくは何にも見えなくなるから、サバイバルできない。
Tail-Lagoon @ 11:04
|
PageUp
2008.05.07 (水)
いったい、この日に何があったのか?
その日、全946ページ、重さ3.4kgもの新聞を発行したニューヨーク・タイムズで調べてみたらどうであろう?
Filed under: other | タグ: Kipple, 歴史
Tail-Lagoon @ 00:29
|
PageUp
以下 Wikipedia より引用(強調は引用者)
長径600km×短径30kmに及ぶ湖水面の面積は31,494km2(琵琶湖のおよそ46倍)でヨーロッパとの境にあるカスピ海や、現在急速に面積を縮小しているアラル海を除くとアジア最大であり、最大水深は1,637mと世界で最も深い湖である。水質も、世界一の透明度を誇り、世界遺産に登録されている。
世界で最も古い古代湖でもあり、2,500万年の歴史を持つ。360以上の河川が流入するが、流出路は南西端に近いアンガラ川のみである。そのため、水量が豊富である。
Tail-Lagoon @ 00:09
|
PageUp
2008.04.23 (水)
18世紀に始まった西洋産業革命が19世紀にもたらしたもの──それは、世界的な規模の拡大と時間の同一化である。資源の短時間大量輸送が可能になった時代では、産業・経済空間の拡大と時間の同期は必須となる。19世紀において、有史以来初めて世界がひとつになった(なろうとした、あるいは、ひとつの土俵にまとまった)のだ──産業・経済システムとして──それもかなり強引に、強制的に。
それまではせいぜい1時間程度の単位だった人間の生活が、分・秒単位で細かく刻まれるようになったのは、機械化された工場の稼働がその発端ではないだろうか。人間の労働力が生産システムの一部として機械と同列に組み込まれ、操業開始から終了時刻まで、一斉に、全く同時に、同一のペースで進行させねばならなかったために、人間の行動時間の単位を分・秒単位まで細分化する必要が生じたのだと思う。大量生産のための大規模なシステムを管理するには、地域差・個体差等の差異を無視し、可能な限りすべてを同時進行させたほうが都合がいい筈だ。
20世紀を概括して戦争の世紀と呼び習わすのは、誰が始めたことなのだろう。だが確かに、それ以前は局所的にしか行われていなかった戦争を、世界規模にまで押し拡げたのはこの世紀だ。世紀の前半部は、二度に亙る世界大戦がその時期の最も重大な事件として史的記憶を占領し、後半部はこの世界的な戦禍の後遺症が国際情勢に大きな暗雲を落とした。そして21世紀の現在においてもいまだ完全に解決したとは、到底言えない状況にある。
では19世紀は、この世界戦争を準備した期間だったのだろうか。たぶんそうだ。産業革命によって、西洋は他地域とは桁違いの強大な技術力を手に入れた。そして西洋は、その圧倒的な力をもって、全世界を呑み込もうとした。蒸気機関の発明、鉄道と蒸気船による陸路・海路の整備(時間短縮・大量輸送の高効率化)が、全世界を一気に狭くし、堅固に結びつけてしまった。電信技術の発明による情報伝達速度の向上も、この流れに拍車をかけたことを忘れてはなるまい。こうして世界が初めてひとつになった。政治的に、ではなく、時間的・空間的にまとまったのだ──システムとして。
ひとつになってしまった世界では、どこか一部の場所で起きた出来事が全体に伝播する速度は、従来とは比べ物にならないほど速い。その出来事がどのような種類のものであろうとも、恐ろしい速度で蔓延する。──たとえその出来事が戦争だとしても、それがすぐさま世界中に拡散するのは当然避けられまい。経済・産業システムを世界規模に拡大した19世紀こそ、やはり世界規模にならざるを得ない戦争システムの準備期間だったといえよう。
Tail-Lagoon @ 19:28
|
PageUp
Filed under: other | タグ: 年表, 歴史
Tail-Lagoon @ 19:00
|
PageUp
2008.04.16 (水)
4/14 天気が良かったので、自転車で鷹の台の松明堂ギャラリーへ。
鉄板をプラズマ溶断で切り抜いた望月通陽の作品が展示されている(「鉄」の展示は 4/20 まで)。
望月通陽氏の作品は、光文社古典新訳文庫のカバーの、あの軽妙な一筆書きの絵が印象的。あのシリーズの文庫が家に数冊あるのだが、ついついその一筆書きを指でトレースしてしまう。そうすると、その線のあまりに自由奔放な動きの不思議さを体感できて、本当に面白いのだ。えっ、こっからこっちへ線が流れるの、ええっ、どうしてこんな順序で形ができてゆくの、おおぉーっ!? と思わず指先のジェットコースター的スリルを味わうことになる。楽しいからやってごらんなさい。
という遊びはやっていたのだが、実は望月通陽という名前を意識したことはなかった。『風の旅人』で教えてもらうまでは。
松明堂ギャラリーに展示されている作品も、とても楽しく面白かった。切り抜かれた一枚の板の自由奔放な形は、眺めているだけで何ともいえない気持ちよさと解放感がある。思わずニコニコしてしまうような、楽しい気分。
重く・固く・冷たい鉄という素材が、軽やかで・柔らかく・温かい何ものかに変貌している、その不思議なギャップ。
錆が描き出す風味と質感が、作品への親近感を齎す(ヤスリ掛けして錆止めを落とし、腐食剤で錆を促進し、丁度いいところで再度錆止め処理を施してあるそうだ)。思わず触ってみたくなる。触ってもいい作品を教えてもらい、切断面に触れてみたが、その凹凸がとても心地よい。作品の輪郭は、なめらかではなく、ギザギザしている(溶断なので鋭くはない)のだが、それがまたいいのだ。ギザギザが形の存在感をより確かなものにし、かつ浮遊するような軽やかさと柔らかさも感じる(凹凸が、人間が作ったものとして、手の跡の確かな感触を残しているせいだ)。
作品そのものだけでなく、それが生み出す影もまた面白い。複数のライトが作品を照らしているので、白壁に影が落ちているのだが、その影の淡くぼやけた形が幻想味を帯びて、不思議な懐かしさのようなものを感じるのだ。空を自在に飛び回ることのできる世界へといざなわれる。だからきっと、大人よりも子供の方が、もっと楽しめるに違いない。そんな展示だった。
Filed under: other | タグ: Art, 感覚
Tail-Lagoon @ 13:06
|
PageUp
3/31 『泥の川』、4/1 『埋もれ木』、4/2 『眠る男』を観た。
『眠る男』──縁側の奥の座敷、ただ布団の中で寝ているだけの男のあの姿が、どうしてあのように心に染み入るような存在感を感じさせ、向こう側の時間を想起させるのだろう。ただ見ているだけで、ほかにはもうストーリーも台詞も要らないとさえ思ってしまう、完成された映像。水車小屋、海辺の定食屋、山小屋など、建物にまつわるカットが、ぼくには印象深かった。
それにしても、記憶というのは不思議なもので、2週間ほど経た昨晩のこと、不意に、老婆が複数の家電のリモコンに色テープを貼って区別していたことを思い出した。ぼくは、それが何の記憶なのかまるでわからず、首を捻ったのだが、今こうして『眠る男』のことを思い返し書いているうち、昨夜のあれがこの映画のワンシーンだったことに思い当たったのだ。役所広司扮する電気屋が、アンテナ修理のため老婆の家を訪れたというエピソード。映画を観ている時は、特に何とも思わなかったのだが、どうしてそれが昨晩唐突に蘇ったのだろう? まあ映画に限らず日常の様々なことに関して、その時は気にもかけていなかったことが時間を経て不意に思い出される(重要なことは忘れているくせに、だ)というのは、ぼくにはよくあることだ(皆そうなんだろうか?)。そしてそんな時はいつも、なぜ自分の記憶が、自分の思うように管理・保管できず、思い掛けない再生を試みるのか、つくづく不思議に思うのである。あのリモコンのシーン、あれが自分にとっていったいどのようなインパクトを持っていたというのだろうか? 自分でもさっぱりわからない。しかしそういうわからないものが、記憶の深層に常に刻み込まれているということだけは確かだ。
『泥の川』は、味わい深い映画だった。何とも切ない映画でもあった。自分の子供の頃の記憶とも、どこかで重なり合う部分があって、それが言いようのない懐かしい寂寥感を伴って、観ていて本当に切なくなる。感傷というよりは、どこか身体の奥底に潜んでいた生存の悲哀──それは子供ながらの甘い悲哀だが、しかし子供だったからこそ感じていた、生きているということの本質に触れている不可思議で切実な悲哀──どこか失われてしまった筈の、なくしたと思い込んでいた場所からの、その蘇生に立ち会っているような感覚だった。
『埋もれ木』は、最初観た時のあの感触を確かめたくて、もう一度観たわけだが、どこか異質な(最も遠く、それでいて最も近く親しい)内部に誘い込まれるような奇妙な夢現つの状態になるのは、やはりただごとではないと思った。またいつか体験してみたい。ただごとでない出来事は、遭遇し体験する以外、他に再現の方法はないのだから。そもそも、あまりに映像的な感動の、その感想を言葉でここに記録しておこうなどとは思わない。上にも書いたが、記憶は定着させようとしてもうまくいかない。ただ奥底に沈み込むに任せ、いつか再び(思いがけず)浮上してくるのを待つのみである。
Filed under: other | タグ: Art, 感覚
Tail-Lagoon @ 13:04
|
PageUp
2008.03.25 (火)
22日、23日の土日に、ポレポレ東中野で開催されている小栗康平監督の映画上映に出かけた。5作品全部見るなら4,000円、しかも嬉しい特典付! と、思わず宣伝したくなる。(詳細は下記の関連サイトのリンク先で見てください)
初日は『死の棘』『埋もれ木』の2本、二日目は『伽倻子のために』の1本、計3本を見た。残る2本『眠る男』『泥の川』は、今のところいつ見に行くか決めてないが、楽しみにしている。4月11日まで開催しているから、まだ余裕はあるけれど、なるべく早いうちに全作品を見終えて、残りの期間で幾つか再鑑賞できたらなあと目論んでいる次第。
小栗監督の映画を見るのは、実は初めてだ。『風の旅人』を通じて知ったのである。17号から最新号までの小栗監督の文章を通読すると、人間がものを「見る」ということの、その根本的な行為について、毎号話題を変えながら深い考察が重ねられ、われわれ読者はもはや「見る」ことを「見過ごす」ことができなくなってゆく。人間にとっての、「見る」ことと「生きる」ことの、その深い連関に思い至った時、ぼくらが普段意識的にも無意識的にも見続けている世界とその映像記憶に対する、新しい「視点」を得られるだろう(静止した思考的な視点ではない、生きた「眼差し」と呼べるようなそれを)。
Filed under: other | タグ: Art, 感覚
Tail-Lagoon @ 10:54
|
PageUp
2005.10.23 (日)
イサム・ノグチが好きかと聞かれても、よくはわからない。ぼくは普段あまり彫刻家の作品を見に行くようなことはない。彫刻家と言えば、イサム・ノグチ以外にはせいぜいロダンとか高村光雲・光太郎の名を思い浮かべることがあるくらいだ。あとはミケランジェロか。しかしミケランジェロは画家でも建築家でもあったしなあ。
ではつまらなかったかと聞かれれば、いやいやすごく面白かったと答える。抽象彫刻は面白い。──彫刻の優劣はわからないから、仮にイサム・ノグチの作品じゃなかったとしても、たぶん楽しむことができたかもしれないが──ともかく面白かったのだ。
では何が面白かったのかと聞かれれば、それは抽象的な造形ゆえの、見る者に様々な想像を喚起させるところが面白かったのだと答える。
立体は、絵画と違って、その周囲360度のどこからでも見ることができ、しかもその角度によって様々に表情を変える。ある角度では奇妙に複雑な形態になるかと思うと、別の角度では驚くほどシンプルな輪郭を見せる。思わず息を呑むような変容。時には何か見慣れた具象物に不思議と似ていたり、しかしちょっと視線をずらすともうその形は消えてしまっている。隠された面が現れ、見えていた面は奥に隠れる。
あるいはそのバランスやテクスチャや微妙な遠近。磨きこまれた真鍮の作品では、そこに映し込まれる歪んだ周囲の像(自分や他の観客達の姿など)さえも、造形に生気を与え、作品の移ろいゆく表情の一部として機能する。
それに陰影。恐らく照明の僅かな位置のズレさえ鋭敏に影響している筈だ。だから、もし作品が別の場所に移動されてしまったら、それはもうぼくが今日見た作品とはまるで違う風に見えるだろう。その証拠に図録を確認すると、それは違う場所で撮影されたものらしく、ぼくが見たものとはまるで雰囲気が変わってしまっている。そしてぼくは図録よりも、自分の肉眼で見た像の方が遥かに優れているとさえ信じ込んでしまう。
そう、彫刻作品が面白いのは、自分の好みのアングルを自分で探し出して鑑賞できることだというのも、ぼくにとっては大きな理由のひとつである。そしてそれはたぶん、他の客達も同じらしい。みんな作品の回りを少なくとも一周はしてみないと気が済まないようなのだ。こういう行動はとても面白いと感じた。とりあえず最低でも一周はしない限り、作品を見た気にならないというのは、やはり立体作品ならではのことだ。隠れた面、見えない面への好奇心を掻き立てられるのだ。
が、それでも皆(これは絵画展でも同じだが)かなり足早に皆過ぎ去ってしまう。あまり長々と一箇所に立ち止まるようなことはない。決して空いていたわけではないが、それほど混雑していたわけでもない。充分立ち止まるゆとりはあったのに。どうしてみんなあんなせっかちなんだろう。
そこでふと思った。なぜわざわざ美術館に彫刻を見に来たのだろうかと。もちろんこれはぼく自身のことも含むわけだが、もしこれらの作品が美術館ではなく街なかにさりげなく設置されていたら、果たしてこうまで注視することがあるだろうか。恐らく一瞬目を止めるか止めないかで、そのまま通り過ぎてしまうのではないだろうか。
見るというのは実は結構意識的な行為なのであり、普段人間の目は(あるいは脳および視覚神経系は)見ようと思う物以外は見えないようにできている。情報は常に何らかのフィルターを通して取捨選択されている。自分の行動にとって重要度の低いものにはあまり注意を払わずにすむようになっているのだ(さもなければ、目に入る物全てについていちいち同様に扱っていたら莫大な量の情報を常に処理しなければならないことになる)。
したがって、街なかの彫刻というのは、大部分の人間にとって単なる目印以上のものではないように思えるのだが、どうだろう。今までぼくは、街なかの彫刻をしげしげと鑑賞し、観察している人など、殆ど見かけたことがない。全くいないわけではないだろうけれど、そのような光景は非常に稀だ。──まあこれは、イサム・ノグチ展とは関係のない、脱線した思考。
特に印象に残った作品をいくつか、備忘のために挙げておこうと思う。
まずは「エイジ」。この作品こそまさしく、見る角度によって劇的に表情を変える造形の代表だ。色・質感・陰影・輪郭がまるで違っているのだ。あまりにも面白くて、かなりしつこく位置を変えながら眺めていたが、全く飽きない。
その表情の複雑さゆえに、この作品はきっと違う場所では全く違う表情を身に纏うだろう。図録に掲載されている写真は、これもまた全く別物とでも言えるような雰囲気になっていて、肉眼で見たものと色も陰影も全く違っている(もちろんそれは写真のせいではない)。この作品は、ただこのひとつだけで、様々な多様性と変容を持った完全な世界として成立している。
正直言って、この作品に触りたくてたまらなかったのだが、誰も触れる者がいなかったので、つい遠慮してしまった。でも、ああいう展示の仕方なら、もしかして触れてもよかったのかもしれない。監視員に確認してみればよかったと、ちょっと悔やんでいる。
それから「この場所」。これは静謐な宇宙だ。敷かれた石の深い存在感と、卵形のくぼみとが、「この場所」に強い重力を齎し、特異点たらしめている。抽象作品においては、ぼくはあまりタイトルを気にしないようにしている(批評家ではないので、作品の解明・解題・分析なんぞ、どうでもいいのである)のだが、この作品だけは、その迫ってくる存在感と題名が、感覚的に完全に符合してしまった。他のタイトルなど全く有り得ないと思えるほどに。
中央のくぼみにはきっと、見えない卵が乗っているのだ。その重みで石はくぼんでいる。または、見えない卵は既に孵化してしまった後かもしれない。その卵から生まれ出てきたのは無論、この我々の宇宙なのだ。
「エナジー・ヴォイド」。今回の展示の目玉作品らしい。高さ3.6mとあるが、数値以上に大きく感じる。吹き抜けのホールに展示してあったのだが、夕陽が差し込んで、この作品を照らしだすのが美しかった。陽光の中でこそ映える作品。巨大なカラビナのようにも、あるいは数字のゼロのようにも、そして作品が捩れているせいで見る角度によっては数字の8(縦に起き上がった無限大のマークだ。それに古代日本でも8は多数の意味だったし)のようにも見える。黒々として、適度に有機的で適度に幾何学的な形態の、一風変わったモノリス(厳密には一枚岩という表現は誤りかもしれないが、その象徴性において「2001年宇宙の旅」のあのモノリスのような、という意味で)のようにも思えた。
「無言の歩み」。作品の展示されている空間の奥行きとシンメトリが、奇妙に印象深かった。この作品は、たぶん、それが置かれる空間を選ぶのだろう。展示の仕方がうまいなと思った(凝っているという意味ではないが)。作品自体の、面のテクスチャと遠近を変え、微妙にシンメトリをずらした構成が、展示空間の丁度よいボリューム(飾り気のない、奥行きのある直方体で、作品にとって広くも狭くもない絶妙のマッス)によって活かされていると思った。
以上が今回のマイ・ベスト・スリーだが、他にも、「足のような木」「レダ」「ミラー」「不思議な鳥」「化身」「フィギュア・イマージング」「メッセンジャー2B」「身ごもった鳥」などなど興味深いものが多数あった。
そうそう、それから「グレゴリー」。ユーモラスな形状の作品だが、この名前はカフカの『変身』の主人公、あのグレーゴル・ザムザの名前から取ったのだそうな。構成部品の組み合わせによって違う形態に「変身」するのだとか。ふむふむ。
というわけで、冒頭にも書いたとおり、とにかく楽しんだのだった。
Filed under: other | タグ: Art, 彫刻
Tail-Lagoon @ 23:59
|
PageUp
2005.08.13 (土)
電車の吊り広告のピエロの絵が印象的だったので『ベルナール・ビュフェ展』を見に行ってきた。ビュフェについての予備知識は全くなし。その特徴的な黒く太い輪郭線の故、コマーシャルアートを予想していたのだが、実際は殆どが油彩のファインアート。新鮮な驚きが心地よい。無知でよかった。
で、ビュフェの絵は、結構気に入ってしまったのだが、しかし、ぼくの評価はかなり間違っているようである。なぜなら、後で買い求めた鑑賞ガイドには「虚無」「孤独」「悲惨」などの暗い単語が並んでいるのだが、ぼく自身が絵から受けた印象は非常にユーモラスで可笑しいものだったからだ。うん、確かにね「虚無」や「孤独」を感じ取れないわけではないよ、でもその表現方法はとてもユニーク(唯一無二という意味だ)でユーモラスだと思う。例えば、カフカの作品が暗く重たい主題を負いつつもある種の軽やかさとユーモアを併せ持つように、ビュフェの作品にも軽さやユーモアがあるように感じるんだよね。そんな感想を持ったのはぼくだけだろうか。
Bernard Buffet
http://museebernardbuffet.com/
ビュフェ美術館
http://www.buffet-museum.jp/
損保ジャパン東郷青児美術館 ベルナール・ビュフェ展
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/
Tail-Lagoon @ 23:59
|
PageUp
2005.06.11 (土)
ソフトウェアはハードウェアに置換することが可能であり、その逆もまた可である──開発コストや実行速度の問題は無視して、本質的な点のみについて考えればってこと。このアイディアを小説的に実現したのがイーガンの『順列都市』だったな、そういえば。
ぼくらの脳髄はハードウェアだが、蓄積された情報(有形無形の記憶や、種としての特徴、あるいは先祖代々引き継がれてきたものを含め、個としての固有の特徴)はソフトウェアでもある。ところでこれを宗教的に考えると、人間というのは肉体と魂から成っているわけで、脳髄=肉体はハードウェアだから、魂=情報はソフトウェアってことになる。と、ここまではきっと誰もがその比喩(本当は比喩ではないんだが)に納得する筈だ──多かれ少なかれそんなことを考えた経験があるだろう?
だがさて、冒頭の命題に戻れば、互いに置換可能ということは、つまり互いに等号で結ばれているということだ。どちらも本質的には違いがないのだから。そして、概念的には分割可能なこの二つも、存在(運動)の様態としては分離は不可能だ。ハードウェアはソフトウェアを内包し、ソフトウェアはハードウェアを前提にする(誤解している人がいるといけないので書いておくが、ここでぼくが言っているハードウェアとは、要するに物質全般のことであって、ある一部の電子機器のことを指しているのではない──書物や自転車やコップといった割と単純な物質(ハードウェア)だって、それが情報である以上はソフトウェアでもあるということだ)。存在とは、ハードウェアとソフトウェアの統合された状態でしか実現不可能な様態であり、故に肉体が滅べば魂も滅ぶ。だがまた、存在とは情報のことでもあるから、情報が保管されている限り、魂も残る(情報が完全であれば肉体の再生産さえ可能だ──ただし、その情報が何時の時点で作られたものかによって、再現される年齢も性格も思想も感情も違う筈だが)。──その人が死ぬとその人固有の情報は失われるが、まったく失われるわけでもなくて、かなり不完全な欠落した形ではあるが、一部は残される。記憶や記録として。あるいはまた、エネルギー保存則に従えば、情報は失われるのではなく、形を変えて生き残るという見方もできる。遺伝子コードとして、思想として、炭素として、あるいは分子・原子・電子・核子にまで砕け散ったとしても。まあこれは結局、その情報の固有性(アイデンティティ)が失われてしまうわけだから、やはり情報の喪失ということになるのかな。しかし少なくとも無に帰するわけではない、と思うことはできる。そう、現代の物理学で言えば、真空でさえも無ではないのだ。
Filed under: other | タグ: Kipple
Tail-Lagoon @ 00:00
|
PageUp