2008.03.25 (火)
22日、23日の土日に、ポレポレ東中野で開催されている小栗康平監督の映画上映に出かけた。5作品全部見るなら4,000円、しかも嬉しい特典付! と、思わず宣伝したくなる。(詳細は下記の関連サイトのリンク先で見てください)
初日は『死の棘』『埋もれ木』の2本、二日目は『伽倻子のために』の1本、計3本を見た。残る2本『眠る男』『泥の川』は、今のところいつ見に行くか決めてないが、楽しみにしている。4月11日まで開催しているから、まだ余裕はあるけれど、なるべく早いうちに全作品を見終えて、残りの期間で幾つか再鑑賞できたらなあと目論んでいる次第。
小栗監督の映画を見るのは、実は初めてだ。『風の旅人』を通じて知ったのである。17号から最新号までの小栗監督の文章を通読すると、人間がものを「見る」ということの、その根本的な行為について、毎号話題を変えながら深い考察が重ねられ、われわれ読者はもはや「見る」ことを「見過ごす」ことができなくなってゆく。人間にとっての、「見る」ことと「生きる」ことの、その深い連関に思い至った時、ぼくらが普段意識的にも無意識的にも見続けている世界とその映像記憶に対する、新しい「視点」を得られるだろう(静止した思考的な視点ではない、生きた「眼差し」と呼べるようなそれを)。
もともとヒトという動物は、周辺環境から取得する情報のうちかなりの部分を、視覚能力に依拠して収集しているらしい。五感のうちでも、視覚はヒトにとって、最も重要な感覚なのだ。次いで重要なのが聴覚。言葉の使用という点においても、聴覚は大切な感覚となる。これら二感覚のあとに、触覚、嗅覚、味覚と続く。
──ここからちょっと脱線するが──
もっとも、触覚は重要な感覚だ。ただ、至近距離において初めて機能する感覚なので、遠方の情報収集には適さない。危険(敵)が致命的な距離まで近づく前に、可能な限り早く察知するために、ヒトは視覚と聴覚を発達させたのだと思う(犬なら嗅覚)。それでもまた、周囲の雰囲気を「肌で感じる」という言い方をすることもある。だがこれはおそらく、他の感覚で得た情報のフィードバックを皮膚のざわつきとして感じ取るということなのだ。無意識に捉えた微弱な兆候に注意を促し意識させるための信号──感覚の鋭い人ほどこのような皮膚感覚に鋭敏であるが、これは異様に鋭い嗅覚や聴覚が微かな兆候を捉え、その微弱な違和感を(多くは危険信号として)増幅するために、本能的に皮膚感覚に転移させ、注意を喚起しているのだと思う。皮膚感覚はある種の警告効果として用いられるのだ。高所で尻がざわざわするのも、尻尾があった頃の名残であるが、高所にいるという情報そのものは主に視覚によって得られる。
ではなぜ皮膚感覚に転移するのかといえば、触覚こそはおそらく生物にとって最も根源的な感覚だからだろう。視覚や聴覚を持たない最も原初的な生物においては、最初に獲得したのは触覚であろうし、ヒトにおいても、生まれたての赤ん坊はまず皮膚を、次いで舌・鼻を使って世界と対面し感知するのではないかと推察している。「触れ合い」や「手当て」などは、人間の最も基本的な交感方法だろう。
味覚・嗅覚については、これらの感覚器官が物質に反応するという点からみて、おそらく触覚から分岐した感覚だろう。したがって、広義の触覚と捉えてもよさそうだ──もっとも、そのような考えでいけば結局は、聴覚は大気と触れ、視覚は光と触れることで反応する感覚なので、これも広義の触覚と言えなくもない。ただ、より微細かつ繊細な感覚であるから、他の感覚器官よりは遅れて発達したのではないかと思う。
まあ、以上は単なる推測なので、間違っているかもしれない。いつかきちんと調べてみたいと思う。
──脱線のさらなる脱線──
ところで、バランス感覚というのは、三半規管が担うらしいが、しかし聴覚と呼ぶわけにもいかないだろうし、五感とは別の感覚? 運動神経とか言うけど、重心を感知するのは「感覚」だろう? 感知した上で適切なバランスをとる反射行動自体は運動神経と呼んでも構わないと思うが。つまり五感というけれど、バランス感覚など、五感以外の感覚があるということだ。(鳩のように)磁場を察知する感覚や(鮭の帰省本能のように)出生地を察知する感覚など、人間にも、弱いだろうけど備わっていないとは言い切れない感覚はあると思う。ではいったい人間は幾つの感覚を持っているのか?
──長い脱線になってしまったけれど、ここで視聴覚に話を戻す──
現代は視聴覚の時代だと思う。というのも現代においては、この視聴覚に入力される刺激が、様々なメディアやテクノロジーによって、より強調され増幅されて、我々は常にそれらの刺激を過剰に摂取していると思うからだ。今のところ触覚・嗅覚・味覚については、それを電気信号などに変換し、電線や電波によって遠隔地に運ぶというわけにはいかず、マス・メディアが成立しない。このため余計に視覚・聴覚に訴える技術が政治的にも産業的にも重要度を増し、より強度を上げていかざるを得ないのだろう。視覚・聴覚に働きかける信号は、極端なまでにデフォルメされて、身体の自然な感覚から遊離しつつあるよう。生活感・リアリティからかけ離れ、ますます浅く軽くけばけばしくなってゆく。
しかしその一方、人間は、それらの技術を駆使して、想像力の根源を揺さぶり、深く重い衝撃を与える作品を生み出してもいる。小栗監督の映画がそうだ。たった一度見ただけで何を言うかと思うかもしれない。でも逆に、たった一度でも見れば、その映像作品を見ている間に受ける特異な体験を、身体で実感できるのだ。これは凄いことだ。
『死の棘』のモノクローム映像に潜む緊迫感、つい眼をこらして見ずにいられない闇の映像の、その美しさやある種の艶めかしさは、緊張を通り越して、少し畏怖さえ覚えた。見ることが喚起する得体のしれない、あるいは名前のない感情(少なくともぼくはそれを言葉にできない)。
その後続けて(トークショーを挟んでだが)見た『埋もれ木』ではとても奇妙な感覚を味わった。カットのひとつひとつが、本当に美しい。幻想的、夢の中の、という言い方をすれば間違いではないが、それでは結局その幻想や夢の中の「個別で特異な体験」を何も説明したことにはならない。ぼくは本当に奇妙な体験をしたのだ。カットが切り替わるたび、一瞬ぼくの焦点がぼやける(スクリーンの、ではなくて、ぼくの目の方が焦点を失うのである)。ハッと思って視線を集中すると、ぼやけた時とは全く違う映像がそこにある。例えば、二人の人間の上半身が映っていると思いながら、焦点を結ぶと、建物と樹木だったり。つまり、うとうとしていた、ということなのだが、しかし居眠りではなく、意識を失うか保つかの奇妙に曖昧な境界上にずっと居続ける感覚。森の中を跳躍する子供、水面に映った鯨の絵、埋もれ木の森の闇に浮かび上がる地層の模様……どこまでも半覚醒の状態を誘発し続けるシーン。
そう言えば、似たような体験が以前にもあった。ドストエフスキーの『罪と罰』を初めて読んだ時、後半、第6部からラスコーリニコフが繊毛虫の悪夢を見る辺りまで、読んでるこっちまで朦朧として、病気にかかったような違和感に苛まれた。朦朧としていたのだが、その異質な感覚だけは20年以上経った今でも忘れず覚えているくらいだから、眠気と退屈を我慢しながら「うとうと」というのとは、全く違う体験だったのだ。もっとも、『罪と罰』は言葉によって誘発されたが、今回は映像なので、似てはいるけれど、完全に同質のものでもない。
そうだ、もうひとつ、今度はちゃんと映像作品において、似たような体験をしたことがあったのを思い出した。タルコフスキーの『ストーカー』! そして『鏡』! これもまた、異質な映像体験だった。
もちろん、類似した体験を思い出してはみても、しかしそれぞれがまた独自に個別の体験でもあるわけで、それで何かが説明できるわけでもない。それに、そもそも「見る」体験(見る眼差し、見る側に生起する感情)とは、結局のところ他者と共有することはできないのだと、『風の旅人』の連載記事に小栗監督が書いてなかったか。
言語は他者と共有できるが、しかしこのことは逆に言えば、言語の他に我々は他者と共有しうるものを持っていないということでもある。だがその言語体験でさえ、その核となる「言語感覚」──ある単語やある文節などが惹起する連想的感情や、その連想が更に齎すであろう螺旋状のより深い連鎖の、あまりに個別に私的な深淵──は共有しえない。
まして映像や夢は、それを再現することはできたとしても、それが導出する感覚のすべてを他者に伝達し共有することなど不可能だ。
ぼくは時々、自分が登場しない夢を見ることがある。夢の世界でぼくは行動する主体としてではなく、単に観客として、そこに継起する脈絡のない出来事を見ている視線だけの存在(あるいは不在)になっている。見ているぼくにはもちろん、見ることによって様々な別の記憶(それもまた夢の中だけの、実際には経験していない記憶であったりするのだが)や感情が湧き起こるのだが、しかしその記憶や感情をもとにして行動するための身体が夢の中にはないのである。何かの不条理な劇を見ている、まさしく観客。しかも最近は、登場する人物も、ぼくの見知らぬ人物であることが多い(夢の中ではとてもよく知っているのに、目が覚めるとそれが誰なのか全く思い出せず、会ったり見かけたりしたことがあるのかどうかさえわからない)。他の人間がそのような夢を見ることがあるのかどうか知らないが、少なくともぼくはそういう夢をわりとよく見る。しかも目覚めてみると、夢は場面も場所も人物もあまりに脈絡もなく切り替わったために、メモを残すことさえ困難だ。夢の内容を説明することさえ難しいのに、ましてその夢を見ている間、自分がその時々に応じて何を感じ考えたかなど、とても説明できるものではない。
だが一方でまた、そのような共有の仕方ではなく、全く別の何かによって、ぼくらは他者と繋がり得るのだという感じもある。それは、ちょっと大袈裟に言えば、40億年ほどの気の遠くなるような永い時間を生き抜いてきた、生物としての根本の記憶や、あるいはホモ族としての数百万年、ホモ・サピエンスとしての数万年を生きてきた記憶、深い深い身体的な記憶によって、繋がっているのだと、そう感じることがあるのだ。この夢がどこか別の場所、別の時と繋がっていると、そう感じる時が。
『埋もれ木』はもちろん、ぼくの見る夢の中での出来事ほど脈絡がないわけでも、説明不能なわけでもないけれど、見るという体験によって揺り起こされる衝撃と、それを説明することの困難さを感じた。しかしまた、それを見たものがきっと共通に感じるであろう、底深い部分での連繋のようなものも、同時に感じたのである。
『伽倻子のために』では、雪原のシーンの飛ばされた白と、画面上部に配置された渡ってゆく人々の行列が、ある種宗教的な(といっても、何か特定の宗教を思い浮かべたわけではないが)天国の絵のように思え、一種の救済のように感じた。主題は重く、決して解決(ハッピーエンド)などではないのだけれど、見ている人間にとって、あの映像は少なくとも救いであるに違いない。上映後行われたトークショーでも確か、そういう話題があった筈だ。
他にも印象に残るカットとしては、珍しくクローズアップされた顔が映し出されハッとする「水飲み」の場面や、光と影の恐ろしく彫刻的な美しさに射貫かれる「横たわった豚」など、これもトークショーで作家田口ランディさんが挙げた場面と重なり、不思議に同感したのだけれど、ただしぼくの持った感想は田口さんほどきちんと言語化(それは感覚的な感想だったけれど、しかし具体的な言葉として形を持っていた)されているわけではなく、本当にただ絵画的に深く印象に残ったものなので、ここでも、それによって生起されたのは多少衝撃と驚きを帯びた「名前のない感情」だったとでも言うほかはない。
ともかく、小栗監督の映画を見ることは、驚異というほかないような体験だった。残りの二作品を見るのが楽しみだ。さて、いつ出かけようか。
Tail-Lagoon @ 10:54
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TL : 2008.03.30 (日)15:05
今日、『眠る男』を観に行く予定だったのに、なぜか上映時間を夕方と勘違いしていた。さっきタイムテーブルを見直したら、昼からではないか! 大間抜けもいいとこ。