2012/01/27(金)
ある男の影が浮かび上がった。同時に幾千もの。まさしく幾千とない影がいた。彼はつい今しがた眼を開いたところであり、そして押しつぶされた通りはうごめき、一日中働いた人々がうごめいていた。今言った影は、巨大ないやらしい建物の壁から抜け出たのだが、その建築というのは息がつまりそうに見え、銀行なのだった。壁を離れると、壁は他の姿たちに突き飛ばされてよろめいた。これといって眼につく個人的行動もなく、自分の不安というより幾千とない隣人たちの不安の総体によって、あちらへこちらへともみくちゃにされて。だが、このよろめきは外見にすぎなかった。事実は、労働から眠りへ、苦難から倦怠へ、苦痛から死への最短距離だったのである。
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Tail-Lagoon @ 08:33
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2011/03/01(火)
グリンガ、おれはそのあと学んだんだ。もうすぐ死ぬが、まだ、そのことがわかっていない人間たちの目にそんな視線が浮かんでいるのを。ときどき、そんな連中を見かけるが、そんなときには誰が、いつ、最初に死ぬか、おれたちにはわかるんだ。その視線には距離みたいなもの、内側を見つめているようなところがあって、それがこうおれたちに言うからだ。『わしを見ろ。わしはもう死ぬ。わしには死ってものがまだわからんが。だが、それはわしがまさしく自分を外側からじゃなくて内側から見ているからだ。おまえはわしを外側から見てる。わしの言うとおりかどうか教えてくれ。坊主、わしをひとり、淋しく死なさんでくれ』
(『老いぼれグリンゴ』フエンテス 安藤哲行 訳)
うろおぼえだが、確かリルケが同様なことを書いていたような記憶が……。マルテじゃなくて、たぶん詩のほうで。
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Tail-Lagoon @ 14:33
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2011/02/28(月)
メンバーは男性だけであるが、緊急のメッセージを運ぶために女性が使われる場合もある。このような役目をになう女性をボラドラと呼ぶ。たいてい信頼のおけるメンバーが、家族の中でいちばん美しい女性を選び、この役目を押しつける。彼女がその役目を果たせなかったときは、もとの生活に戻す。女性の入会儀式は、まず同じような40日間の水浴びから始まる。そしてある晩、森の中の開けた場所で教官と会うよう命じられる。彼女に見えるのはキラキラ光る銅の皿だけである。教官は命令を下すがけっして姿は見せない。教官は彼女に服を脱ぎ、腕を前に差し出してつま先立ちするよう命じる。彼女は苦い味のする液体をひと口飲み、腸を吐き出す。
「皿の中へ! 皿の中へ!」と教官がどなる。
からだの中がからになった女はすっかり身軽になり、羽を生やして人家の上をヒステリックに叫びながら飛び回る。世が明けると彼女は皿のところに戻り、腸を飲み込んで人間の姿に戻る。(『パタゴニア』チャトウィン 芹沢真理子 訳)
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Tail-Lagoon @ 22:49
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2011/02/24(木)
植物が行う光合成と動物が行う酸素呼吸は対称的な化学反応である。植物は大陽の光をエネルギー源にして二酸化炭素から複雑な有機物を合成し、動物はそれを分解して生活に必要なエネルギーを得ている。光合成も光化学反応やカルビン回路、酸素呼吸も解糖系やクエン酸回路などと呼ばれる、多数の生化学反応の複雑な連鎖から成り立っているが、それらの化学反応をすべてひとつの式にまとめると、それぞれ
光合成 6CO2 + 6H2O → C6H12O6 + O2
酸素呼吸 C6H12O6 + O2 → 6CO2 + 6H2O
となり、まるで最初からそのように設計されていたかのような、完全な対称性を持っている。高校生の時、大きな模造紙にたくさんの生化学反応の連鎖をひとつひとつ書き出してゆき、それらがけっきょくはこの二つの反応式に集約され、すべての物質が生態系の循環の中で完結している様子を一目で見られるようにして、それを壁に貼りつけて眺めてはその見事な仕組みにひとりで幻惑されていたものだった。(蛭川 立「意識のコスモロジー – 場当たり的な奇跡」(「風の旅人」vol.42))
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Tail-Lagoon @ 00:08
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2011/02/15(火)
夢はわたしたちの個人的な神話だ。眠っているハリエットにキスしたときグリンゴ爺さんはそう思った。そして、彼女の夢が戦いよりも長くつづいて、戦いそのものに勝ってほしいと願う。そうなれば、生死はともかく、自分が戦いからもどったとき、この途切れることのない夢のなかで彼女が迎えてくれることになる。夢はやがて記憶や忘却によって多くの細部や構成から成る長いストーリーのように復元されることになるものだが、彼女の夢はそんな一つの夢が続くわずかな時間のあいだに、彼が見たいと願い、見ることができるよう誘引することで、彼が見て、理解することになった夢だった。たぶん彼は自分の夢に彼女を招待したかったのだ。だが、それは誰とも分かちあえない死の夢だった。ところが二人が生きてさえいれば、どんなに離ればなれになっていても、それぞれの夢のなかに入り、その夢を分かちあえる。彼はまるでこれが人生最後の行為とでもいうかのように必死になって、目を開け唇を噛みしめたまま、一瞬のうちにハリエットの夢をすっかり夢見たのだった。不在の父、影に囚われた母親、テーブルの上で輝きつづける光から見捨てられた家の束の間の光への移行、そういったことすべてを。
(『老いぼれグリンゴ』フエンテス 安藤哲行 訳)
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Tail-Lagoon @ 06:40
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2010/11/23(火)
ある日、これまでどこにいたのかと尋ねてみた。メキシコと中央アメリカをつなぐ川を端から端まで歩いたと彼は言った。俺の知るかぎり、そんな川は存在しない。それなのに彼はその川を端から端まで歩いたと言っていて、今ではどこで川が蛇行してどの川と合流しているか知っている自信がある、とも言っていた。木々の川か砂の川か、ときどき砂の川に変わる木々の川。職にあぶれた人々の途切れることのない流れ、貧乏人と飢えやドラッグや苦痛で死んでしまいそうな連中の流れ。雲の川。そこを彼は十二か月にわたって航行し、その途中で数えきれないほどの島と集落を見つけた、すべての島に人が住んでいたわけではないが、そうした集落に、そのまま住み着いてしまおうかと、そしてそこで死ぬまで暮らそうかと考えることもあったという。
訪ねたすべての島の中でも、二つがものすごかった。過去の島だ、と彼は言った、そこには過去の時間だけが存在していて、そこでは島人は誰もが退屈していて、そこそこに幸せだった、でもそこでは想像の重みが大きくて、島は毎日少しずつ川の中に沈んでいった。それから未来の島だ、そこに存在する唯一の時間は未来で、島人は夢見がちで攻撃的だ、どのくらい攻撃的かというとだな、とウリセスは言った、しまいには共食いしかねないほどなんだ。
(『野生の探偵たち』ロベルト・ボラーニョ 柳原孝敦・松本健二 訳)
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Tail-Lagoon @ 15:43
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2010/07/27(火)
Somehow it was all tied up with a story he’d heard once, about a boy born with a golden screw where his navel should have been. For twenty years he consults doctors and specialists all over the world, trying to get rid of this screw, and having no success. Finally, in Haiti, he runs into a voodoo doctor who gives him a foul-smelling potion. He drinks it, goes to sleep and has a dream. In this dream he finds himself on a street, lit by green lamps. Following the witch-man’s instructions, he takes two rights and a left from his point of origin, finds a tree growing by the seventh street light, hung all over with colored balloons. On the fourth limb from the top there is a red balloon; he breaks it and inside is a screwdriver with a yellow plastic handle. With the screwdriver he removes the screw from his stomach, and as soon as this happens he wakes from the dream. It is morning. He looks down toward his navel, the screw is gone. The twenty year’s curse is lifted at last. Delirious with joy, he leaps up out of bed, and his ass falls off.
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Tail-Lagoon @ 00:19
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2010/02/04(木)
「さあ、一緒に出かけて、生命を不必要な危険にさらしていただけないかしら。もしも生命になにかの価値があるとしたら、生命は無価値だということこそ、その価値なのね。自由に生きる人間は死ぬことができるという言葉があるでしょう」
(『アフリカの日々』イサク・ディネセン 横山貞子 訳)
危険だけれどなさねばならない何かの仕事を、もしこんな風に誘われたら、ちょっと断り切れないよね。
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Tail-Lagoon @ 11:59
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創造は破壊にむすびついている。古代オルメカの伝説では、ジャガーが宇宙を生み、またむさぼり食う。
(『歌の祭り』ル・クレジオ 管啓次郎 訳)
宇宙・世界の創世は神話につきものだが、生み出した宇宙を貪り食うとは驚愕である。これはどんな伝説だろうか。
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Tail-Lagoon @ 11:53
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2009/12/23(水)
アルゴスと私は別々の宇宙に属している、知覚は同じなのだが、アルゴスは知覚したものを違った風に結び合わせ、それによってべつの物体を作り出している。いや、彼にとっては物体といえるようなものは存在しない、あるのは瞬間的な印象の連続的で目くるめくような組合せだけなのだと考えた。記憶も時間もない世界を思い浮かべ、名詞をもたない言語、非人称動詞、あるいは不変化の形容詞からなる言語の可能性を考えた。そうしているうちに日がたち、年月がたっていった。
(『エル・アレフ』「不死の人」 ボルヘス 木村榮一 訳)
I reflected that Argos and I lived our lives in separate universes; I reflected that our perceptions were identical but that Argos combined them differently than I, constructed from them different objects; I reflected that perhaps for him there were no objects, but rather a constant, dizzying play of swift impressions. I imagined a world without memory, without time; I toyed with the possibility of a language that had no nouns, a language of impersonal verbs or indeclinable adjectives. In these reflections many days went by, and with the days, years.
(THE IMMORTAL by Jorge Luis Borges. Translated by Andrew Hurley.)
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Tail-Lagoon @ 23:40
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