2010/05/24(月)

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トニー・ガトリフ監督 / 1995年 / フランス
モンドというこの少年の在り方をどう思う?
寂しさはあるけれど、悲惨さはない。社会、文明からはぐれた人間の生。
映像化されたル・クレジオの作品を観て改めて感じたのは、処女作『調書』にも現れていた、逸脱した人間の根源的な存在感と生命そのものの輝きだ。
モンドというかけがえのない少年。それは、単なる「かけがえのない生命」などという言葉に代表されることのない、ただひたすらモンドでしかない存在としての、かけがえのなさ。
フィクションであるにも関わらず(あるいはフィクションであるからこそ)彼の生活の奇跡的な在り方が、美しい。
これは本当に美しい映像作品だ。
原作も映画もどちらもいい作品というのは、なかなかないのだけれど、これはどちらもいい。
もともと、映像化できる作品なら、最初から映像作品として作ればいいし(わざわざ文章で書く必要なんかないだろう?)、逆に文章作品は映像化できない領域をこそ目指すべきだと常々そう考えているぼくとしては、もし小説を映像化するならば、それなりの映像の強度が必要だと思う。だから、映像作品はたとえ原作があったとしても、絶対に原作の〈言葉〉に頼ってはいけない。
そういう意味で、ガトリフのMONDOは、映像作品として、ちゃんと原作と拮抗した力を得ていると感じた。(おっと、偉そうな物言いをしているけれど、ぼくはもともとそんなに映画は見ないし詳しくもないけどね)
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Tail-Lagoon @ 23:59
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2010/05/04(火)
『はだかの王様』は、誰の眼にも王様は裸だと映っていた。ただ一人の子どもだけが見えたままを正直に叫んだが、大人たちも自分が嘘をついていると自覚してはいた。
『1984』の世界では、誰もが王様は素晴らしい服を着ているのだと信じているし、本当にそう見えている。王様が裸に見える人間は、狂っているのだ。だからオブライエンは、ウィンストンを拷問しながら、彼を精神錯乱、精神異常とし、「治療可能だ」と嘯いてみせる。
ウィンストンはもちろん、自分が狂っているとは思っていない。「少数派であっても、いやたった一人の少数派であってさえ、そのことで狂人ということにはならない。一方に真実があり、他方に出鱈目がある。もし全世界を敵に回しても真実を手放さないのなら、その人間は狂っていないのだ。」
これは陰鬱な小説だ。敗北は最初から確定している。
文明を維持しているのは狂気だ。狂気が世界を支配し、正気の人間が周縁部に押しやられ、あるいは消えてゆく。──我々はみな自覚なき狂人である。
オーウェルが告発しているのは、全体主義であり、権力を維持するためのシステムであり、徹底的な監視と管理による憎悪が支配する社会である。
しかし、──とぼくは思う──資本主義も、民主主義も、あらゆる社会体制は、結局のところ狂気の沙汰でしかないのではないか。『1984』の世界とは別の形で。
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Tail-Lagoon @ 22:54
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2009/11/16(月)
狂気というのは、ひとつの才能である。人は誰でも望んで狂気を手に入れられるわけではない。狂気を望んだところで、狂気はやってこない(例えば、アンドレ・ブルトン)。狂気は人を選ぶ。狂気は、狂気に選ばれた人間だけが持つことができるのだ。
P・K・ディックは天才だ。『火星のタイム・スリップ』を最初に読んだのがいつだったか? 時期も(もしかしたら20年ほども前のことかもしれない)内容も覚えていない。ただ、何か黒ずんだ不安な雰囲気だけが、漠然と痕に残り続けた。今、再読して、改めてこの小説の恐ろしさがわかった気がする(そして日野啓三との近しさも)。20年近くかけて、ぼくは漸く、ほんの少しだけ、狂気の側に近づくことができたのかもしれない。
Filed under: Impression | タグ: ディック, 日野啓三, 狂気
Tail-Lagoon @ 23:59
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2006/10/05(木)
宇宙は狂っている。ディックの『ヴァリス』を読んでいると、それが真実らしく思われてくる。ファットの教義についてなにがしかの納得をしてしまうなら、既に狂気にとりつかれているかもしれない。
P.K.ディックを読んでいると直感する。生の本質は狂気であり、狂気の本質は死だ。そして、存在の合理的な目的など、宇宙にはないということも。
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Tail-Lagoon @ 20:27
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2005/04/05(火)
世界の成り立ち・仕組みに対する絶大な好奇心。その好奇心を真面目に追求すれば科学者になる。しかし学問というのはとてもまだるっこしい。こつこつと実験だの検証だのに費やし、地道な積み重ねを必要とする。それはそれで尊敬しうる立派な仕事ではあるが、しかしどうも自分には気長すぎる。どんなにがんばっても、もしかしたら知りたいことの半分も解明できずに一生を終えるかもしれない。
などと考えるせっかちな人間がSF作家になるのじゃなかろうか。
科学では未だ解らないことを、空想で補う。想像力を駆使して世界の仕組み(理論)を勝手に再構築する。もちろん、そのような思いつきの理論など間違っている公算は大である。しかし、問題は正しいか間違っているかではなく、楽しいかどうかなのだ。答が合っていようがいまいが、そんなことはどうでもいい。それらしい答を導き出すためにあれこれ思案することが楽しいのだ。フィクションとは、そういう楽しさなのだ。だからこそ、世界の仕組みは奇想天外であればあるほど面白い。更に、その奇想天外な理論にいかにももっともらしい理屈をつけ、さも有り得ることのように説明できれば、なお面白い。よくもまあこんな屁理屈をひねくり出したものだと人に思わせられれば最高である。嘘八百で人を騙して納得させてしまうのはたまらない快感だ。SF作家とはつまり稀代の大嘘つき・詐欺師・ペテン師の類なのだ。ただし、それで人から何かを奪ったりはしない。むしろ希有壮大な法螺話で、人に楽しい時間を与えることこそ本懐だ、と考えているに違いない。
(バリントン・ベイリー『禅銃(ゼン・ガン)』を読みながら思ったこと)
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Tail-Lagoon @ 00:00
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2002/10/16(水)
シュルレアリスムについて──超現実を幻想と捉えてはいけない。超現実とは、あくまで現実の強度がより高レベルに達した状態・様態のことである。現実とかけ離れたものなのではなく、現実と地続きの、同一地平にあって、ただ現実をより突き詰め推し進めたものであるというだけのことなのだ。と、そういった意味のことを最近読んだ本の中で巖谷國士が述べていた。より強度の現実のことを超現実と呼ぶのならば、それはまさしく日野啓三が残していった作品にも、この言葉が当て嵌まるのではないか。
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Tail-Lagoon @ 23:55
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1997/10/27(月)
もうすぐ星野道夫氏の一周忌がやって来る。長かったような、早かったような。ぼくなりに氏の逝去を悲しんだ一年だった。それにしても、その著書を通してしか知らない男の死を、単なる一読者でしかないはずの自分がなぜこうも悼み続けるか。今までこのような経験はなかったのに。これこそたぶん、星野道夫の言葉が持つ力なのだと思う。彼の文章の中にはいつでも優しい笑顔をした等身大の男の姿が見える。ひどく近しい場所、まるですぐそばに彼が立っているように。勿論、星野氏は写真家であり、彼の写真集はどれも見る者に深く感銘を与えずにはおかないのだけれど、それでも、ぼくが写真しか見たことがなかったならば、それほど影響はなかったと思う。写真もすばらしいけれど、それと同じくらいに大きいのは、やはり彼の言葉の力なのだ。
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Tail-Lagoon @ 00:00
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1997/03/21(金)
いつかあなたはナヌークに出会うかもしれない。
ナヌークに出会った者は幸せだ。
それは大地の一員として認められることだから。
あなたがたった一人ではなく、たくさんの命とつながっているのだということを知ることだから。
子供向けに作られた写真絵本、易しい文章で、量も少ない。にもかかわらず、この一冊の絵本の中には星野道夫の核が凝縮されている。素晴らしい写真と簡単な文章の中に込められた思いは、遙かに奥が深いのである。
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Tail-Lagoon @ 00:00
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1997/01/05(日)
『旅をする木』を読んだ。星野道夫という人の書いた文章を読むのはこれが初めて。 僕はつい最近、池澤夏樹『未来圏からの風』のなかで星野道夫というカメラマンの存在を知った。アラスカに魅せられ、アラスカに住み、アラスカの自然を追い続けた人。すでに過去形になってしまうのが非常につらい。この人の名を知って、本も出していると聞いて、これはいずれ是非読んでみたいと思っていた矢先のことだったので、新聞で事故を知ったときは正直言ってかなりショックだった。以来、心の奥にこの人のことが引っかかって、日常ふとぼんやりしたときなどに星野氏の名前が頭に浮かんでくるのをどうすることもできなくなっていた。池澤氏の本の中でしか知らない人のことが、どうしてこれほど気になるのか、僕は自分でもそのことがとても不思議だった。ただ、氏のことを考えている時、いつも自分の中で何か声が聞こえていた。その何かの声が、この本を読み終えたことでようやく、少しずつ形になってきた。命は有限である。おまえはその有限な命をどう生きるのだ。声はそう言っており、その問いかけが、自分の中でずっと続けられている。星野氏の親友が亡くなったときの話が、『歳月』という題で書かれている。星野氏は親友の死を悲しみ、いろんなことを考え、そして最後に自分が今生きていることをまざまざと実感する。自分の生きてゆくその生き方をはっきりと確信する。〈自分の好きなことをやっていこう〉結局誰にとっても、結論はこれしかない。ただ、そう理解することはできても、そう生られる人はやはり少ない。
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