2002/10/16(水)
シュルレアリスムについて──超現実を幻想と捉えてはいけない。超現実とは、あくまで現実の強度がより高レベルに達した状態・様態のことである。現実とかけ離れたものなのではなく、現実と地続きの、同一地平にあって、ただ現実をより突き詰め推し進めたものであるというだけのことなのだ。と、そういった意味のことを最近読んだ本の中で巖谷國士が述べていた。より強度の現実のことを超現実と呼ぶのならば、それはまさしく日野啓三が残していった作品にも、この言葉が当て嵌まるのではないか。
日野啓三は〈向こう側〉に憑かれた作家だった。〈向こう側〉とは現実の向こう側であり、事物の存在がより強度のレベルに到達する地点のことだ。超現実の世界のことだ。ではそれはいったいどのような世界なのだろうか。
我々が日常において現実と呼んでいるものは、実は、慣習・制度・文化・その他諸々の約束事とそして何よりも我々自身の皮膚・網膜・鼓膜・舌や鼻の粘膜などの膜類のフィルターとによって濾過されて後にようやく認識される、偽りに満ちた情報のことである。この現実においては、存在物は常に様々な理由を与えられて存在し、我々もまたそのような存在理由・在り方を当然のこととして通常気にも留めない。対象が人工物・製品であればその傾向はなおさら強まるようだ。つまり、食器は料理を盛りつけるために存在し、ペンはものを書くために在り、TVは受信した電波を映像や音声に変換するために在り、工場はそれらのものを製造するために存在し、更には開発するための人や会社が存在し──そのような名目の連鎖は拡大して──都市は、社会は、国家は、といったように、とりあえずは何らかの存在理由を与えられて、さもありとあらゆる事物がそのような約束事に従って在り続けるかのように思い込んでいるし、仮に名目のない存在物があったとすれば、これについては極力忘れ去ろうとしている。
むろん、本当はそうではない筈だ、そんな名目・約束事など全くの嘘だということを、薄々ながら感じとってはいる。それでも我々は、わざとのようにそういう方向へ意識を向けることを避けている。そうしなければ現実が、つまり日常が、生活が、簡単に破綻し崩壊することを知っているからなのだろう(現実とはあっけないくらいに脆く不確かなもので、ちょっとしたきっかけですぐさま崩れ去ってしまうということを、我々は本能的に感得している。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件、そして何よりも9.11のあの事件のように。もっともあれらの事件は、確かに現実の、日常の崩壊ではあったとしても、しかもそれらは新たに出来した現実なのであり、ここでいう超現実とはやはり位相を異にする。超現実とはあくまで人間の意識の、精神の、一段階跳躍した状態において意識する現実のことなのだから)。
しかし、現実の偽りを敏感に感知する繊細な感性を持ち、そのような偽りから目を背けることのできない誠実な人間ならば、事物の存在を誤ることなく真摯にあからさまに剥き出しに認識し、事物が事物自体で在ることを意識し感受し続けざるをえないだろう。日野啓三がそうであったように。
モノはモノ自体で在り、存在物は他にいかなる理由もなくただそれ自体として在り、だからこそただその在るということのみによって、美しく輝きを発しているのだ。純化された存在の輝き。矛盾した形容かもしれないが、絶対零度の輝きとでも呼びたくなるような輝き。
そしてその輝きを我々の眼前に開放し告知し啓示してくれるのが、日野啓三の作品なのだ。人間に都合のいい理由・名目から解き放たれた、本当の、剥き出しの現実を、それが最も美しく冷たく冴え渡る地点を舞台にして、日野啓三は開示して見せた。その地点とは例えば、かつての夢の島・13号埋立て地であったり、月面であったり、崩壊寸前の古い洋館であったり、砂という無機物が支配する砂丘や砂漠であったり、ベトナム、シベリア、ベナレス、カッパドキア、タクラマカン砂漠等々であったりする。
日野啓三が追い求めた〈向こう側〉。境界を越えた場所。それは、寒く、冷たく、明るく、軽やかに、眩暈を伴う白熱の輝きに満ちた世界。死という名の新しい生・意識・精神・魂が支配する世界。
生物の肉体は、膜によって覆われ(皮膚膜や粘膜、そしてその根本の細胞膜)、その膜を境界として自分と他者とを区別し、免疫システムを設けることによって自己同一化を保持している。もしその膜を取り外し、外部と内部との境界を失ってしまえば、生物は個としての生存形態を存続できなくなる。が、その一方で、外部の存在と合わさり、交わることによって、世界を直に感知し、細胞レベル・粒子レベルで認識することのできる新しい形態を掴み取るのかもしれない。死とはもしかしたらそのような状態・形態のことなのかもしれない。
意識を変容させ、精神を新しいレベルに跳躍させることによって、〈向こう側〉=超現実へ辿り着こうとする試みを、日野啓三は一貫して書き綴ってきた。痛覚を感じるほどあらわに剥き出しにされた感性(センサー)によって鋭い知覚を得、まざまざと世界の、そして宇宙の存在を認識すること。それが〈向こう側〉へ到達する唯一の手段なのだ。
そのようにして、日野啓三は〈向こう側〉へ、彼岸へと旅立っていった。不確かな現実の先に在る、荒涼として美しく恐ろしい氷の世界へ──だが決して一時も静止しない変容と生成の世界へ──おそらく我々の世界から最も遠くしかも最も近しい世界へ。我々の手元には、世界に関する多くの啓示と予感と眺望が書き記された書物のみを残して。それらは我々にとって新しい世界への案内書とも呼べる書物なのだ。
かつて嬉々としてタクラマカン砂漠を飽かず駆けずり回ったように、今もまた日野啓三は、到達した〈向こう側〉、踏み入れたばかりの新しい境地、より深度の増した実在の世界において、魂を嬉しそうに高揚させながら探求していることだろうと、ぼくは想像する。
昨夜ぼくは、会社からの帰路ずっと、このようなことを考えていた。乗り換えの電車を待ち合わせるホームに突っ立って、折りしも夕方から降り出した雨と雷に聞き入りながら。
雨音は周囲の雑音を吸い込んで消し去り、稲光は青白く世界を照らし、ぼくにはそれが、空が日野さんの死を弔っているように思えた。それとも、日野さんからの、この世界に対する別れの挨拶だったのかもしれない。
だからぼくも、届かないかもしれないが、無名の読者の一人として、旅立った人に挨拶をしておこうと思う。
さようなら。ぼくは生涯あなたの残してくれた著作を読み起こし、読み返し、読み続けていくことになると思います。
Filed under: Impression | タグ: 日野啓三
Tail-Lagoon @ 23:55
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