2008/04/08(火)
雑誌『風の旅人』の前号と最新号から、自分が共通して関心を持った箇所を抜き書きしておく。人が生きていき、世界(自然・宇宙)と対峙する時の、その態度を表す様として、いずれも重要なことを言っていると思えるから。
人生は矛盾に満ちている。すべての人間は例外なく死ぬ。その死ぬことが分かっていながら、なぜ人は生きようとするのか。(中略)そして得た私なりの武術の定義の一つが「武術は矛盾を矛盾のまま矛盾なく取り扱うこと」だった。
(「運命の二重性」甲野善紀 『風の旅人』30号より)
武術に限らず、これは人生と世界を受け入れ、肯定するための、最も大切な基本的態度だと思う。ただそれを達成することはなかなか難しい。甲野氏は武道家であるゆえに、武術によってこそ達成しようとしているのだろう。そしてもちろん、人によってやり方は様だ。以下の引用においてそれぞれの執筆者が各様に書いていることも、その根本には共通の思想が底流していると、ぼくには思われる。
迦微(かみ)が嫌いだからといって、これを放り出して生きていくことはできない。迦微の助力を得ること、それを喜ばし、心穏やかにさせることは、私たちの生活に最も深く強いられたことだ、そういう思想が宣長にある。
(「物の道徳」前田英樹 『風の旅人』31号より)
(イエスの復活を捏造し信じたことによって)人間を上回る神の大きさ、つまり人間の思考を超えて矛盾をものともせずに自在に生きる神の大きさ、この宇宙の矛盾に満ちた生と重なる神の大きさに目覚める機会を失ってしまったのだ。(中略)復活が語られ信じられていくなかで、イエスの死も、神の存在も、話に辻つまをつける人間の論理的な思考のなかに収められてしまった、人間のスケールに合わされてしまったということである。
(「歴史との相克」酒井健 『風の旅人』31号より)
陸地はまだいい、陸地は想像可能なのだ、とルクレジオはいう。ところがヨーロッパ的想像力には、海を思い描くことができなかったのだと。(中略)あらかじめ忘却され排除された半分に、つねに最新の注意を払うことが、ルクレジオの思索と旅のスタイルだった。
(「その島へ、この海を越えて」管啓次郎 『風の旅人』31号より)
(※ルクレジオはル・クレジオと表記される方が多いが、引用は原文のまま。そういえば管氏はル・クレジオの翻訳もしている方だ)
あるいはまた、このような思想を言葉ではなく映像で示すなら、31号冒頭に掲載されている小島一郎氏の「白い広野」津軽の写真となるのだろう。ぼくは津軽を知らないけれど(そしてまた、写真の津軽は数十年の時を経た古き風景なのだけれど)、しかし少なくともぼくの記憶の深いところにある原風景は、あの津軽の写真と共鳴し同調したことは確かだ。
***
ここで『風の旅人』について更に書いておけば、仮に31号だけとりあげても、その一冊だけでもあまりにも奥行きと拡がりを持ち過ぎて、とても全部は語り尽くせない。
高橋宣之氏「水の時と命」の写真に目を瞠り、唸り、その色彩の豊かさと不可思議さ(ぼくは水という物のあのような表現を初めて見たし、いったいどうなってる写真なのかいまだにわからない)に吸込まれるようだったし、有元伸也氏「東京~天国」の異人たち(外国人のことではない)の写真の人懐こい暖かさがどこからくるものか(少なくとも癒しなどではない)考え込まされたり、あるいはまた、俄には判断できないがとても興味深い宇宙論や、普段殆ど知られることのない北朝鮮の人々の生活が紹介されているなど、まさしくこれこそ本当の「総合誌」(人間と世界に関わる最も根源的なもののすべてが扱われている)だと、思わずそんなことを言ってみたくなる刊行物だ。
もしまだ見たことがないというなら、一度手に取ってみてはいかがだろう。煩わしい広告なども殆どなく、全ての号が永久保存版というような作りの雑誌、ぼくは他に知らない。
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Tail-Lagoon @ 20:08
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