2008/02/26(火)
これは、1897年、自殺を決意したゴーギャンが、すべてを注ぎ込んだ大作のタイトルである。自殺は砒素を過飲して失敗に終わった。
D'où venons nous? Que sommes-nous? Où allons-nous? (仏語原題)
Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going? (英訳)
「描きおわって夢からさめると、私はつぶやいた、われわれはどこから来るのか、何者なのか、どこへ行くのかと。だがこの想念はもはや画面とは無関係に、そこからまったく離れ、言葉として、絵をめぐる壁のうえに印されたものだ。画題としてではなく、署名として……。」
1899年3月のゴーギャンの手紙
(『GAUGUIN』R・ゴールドウォーター著/嘉門安雄訳/美術出版社)
ゴーギャン自身そう書き記したように、これは本当は絵のタイトルではないのかもしれない。それをタイトルとするには、あまりにもそのテーマは深遠であり、広大すぎるようにも思える。もちろん、ゴーギャンの描いた大作も、その問いに対する解答などではなく、むしろ問いそのものなのだろう。答のない問いを問い続けることこそが、おそらく人間の生きる道なのだろうから。たとえ答を得られる可能性が限りなくゼロに近いとしても、人として生きてゆくために、やはり我々はそれを問い続けなくてはならないのだ。
Tail-Lagoon @ 22:53
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rbhh : 2008/04/19(土)05:00
こんにちは。初コメントです。
昨年、ゴーギャンのこの作品を見ました。
その時のことを少しばかり書いた記事に、TLさんのこの記事をリンクさせていただきました。
私たちは一生、問い続けていかなくてはならないのでしょうか?しんどいです・・・。
TL : 2008/04/19(土)14:52
こんにちは。コメントありがとうございます。
確かにしんどいですよね。ふと思いました。問い続けていかなくてはならない、ではなく、問い続けざるをえない、という言い方のほうが正しかったかもしれないと。何も見えないまま生きてゆくのはどうしようもなく不安ですから、そこに何か意味を見出したくなる、人間とはそういう生き物なのかもしれないな、と。
そして、そのような問いを忘れられる瞬間が訪れた状態を、幸福と呼ぶのかもしれません。たぶん、その問い掛けを忘れていられる間は、その人は幸せなのです。忘我とはきっとそのような境地を差すのでしょう。と、ぼくは何となくそんなことを考えました。