1997/01/05(日)
『旅をする木』を読んだ。星野道夫という人の書いた文章を読むのはこれが初めて。 僕はつい最近、池澤夏樹『未来圏からの風』のなかで星野道夫というカメラマンの存在を知った。アラスカに魅せられ、アラスカに住み、アラスカの自然を追い続けた人。すでに過去形になってしまうのが非常につらい。この人の名を知って、本も出していると聞いて、これはいずれ是非読んでみたいと思っていた矢先のことだったので、新聞で事故を知ったときは正直言ってかなりショックだった。以来、心の奥にこの人のことが引っかかって、日常ふとぼんやりしたときなどに星野氏の名前が頭に浮かんでくるのをどうすることもできなくなっていた。池澤氏の本の中でしか知らない人のことが、どうしてこれほど気になるのか、僕は自分でもそのことがとても不思議だった。ただ、氏のことを考えている時、いつも自分の中で何か声が聞こえていた。その何かの声が、この本を読み終えたことでようやく、少しずつ形になってきた。命は有限である。おまえはその有限な命をどう生きるのだ。声はそう言っており、その問いかけが、自分の中でずっと続けられている。星野氏の親友が亡くなったときの話が、『歳月』という題で書かれている。星野氏は親友の死を悲しみ、いろんなことを考え、そして最後に自分が今生きていることをまざまざと実感する。自分の生きてゆくその生き方をはっきりと確信する。〈自分の好きなことをやっていこう〉結局誰にとっても、結論はこれしかない。ただ、そう理解することはできても、そう生られる人はやはり少ない。
僕はこの本を読み終えたばかり。久々のゆっくりした休日ということもあったけれど、それでも一冊の本を一気に読み終えたというのは、このところずっとなかったと思う。集中して一息に読ませてしまうほど、この本は何かを語り掛ける強い力を持っている。わかりやすく、素直で、正直で、心のほっとするような文章を本当に久しぶりに読んだ。こんな文章を読めるのは、とても嬉しいことだ。常に自然と直接対峙している人だけが持つ優しさ・おおらかさがひしひしと伝わってくる、本当にいい文章だと思う。もっとこの人の書いた文章を読んでみたい。ずっとこの人の生を追い続けていきたい。それだけに、惜しい人が亡くなったという何ともいえない悲しさがずっと続いている。ただ、星野氏本人はあのような自分の死をおそらく覚悟していただろう。少なくとも、いつでもその時が来たら受け入れる準備はきっと有ったに違いない。そんな風に思わせるセンテンスがあちこちで見つかる。そのたびに読んでいる僕としては胸を絞られるようになるけれど、それでも星野氏の言っていることが本当のことだという確信は強まってゆくばかりだ。
「もしこの土地からクマが消え、野営の夜、なにも怖れずに眠ることができたなら、それはなんとつまらぬ自然なのだろう。」
「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」
そう、こういうものの考え方をする人の書く文章、語る言葉というものが、人の心を強く打つ力を持たないはずはない。僕がこの人のことがずっと気にかかって仕方ないのも、実は不思議でも何でもないのだ。
人間にとってもすべての生物にとっても、死とはごく当たり前の出来事であり、従容と受け入れなければならない事実であること、これは確かなことだ。それでもやはり、死の悲しみをどうすることもできない。でも僕は、星野氏からパワーをもらった。星野氏自身が書いているように、〈かけがえのないものの死は、多くの場合、残された者にあるパワーを与えてゆく〉。真実そうなのだと思う。もちろん僕は、氏と親しいどころか、会ったこともない一読者に過ぎないわけだけれど、もし叶うならば、「僕はあなたの本を読んで、あなたの人生を知ることで、本当に勇気づけられました。ありがとうございます」そう伝えたいのだ。
まだ僕はこの人の本を一冊読み終えたばかり。まだ僕はこの人の世界のほんの入り口に立ったばかりだ。それでも、僕が読むことのできる星野氏の本の数はもう限られているということ。まだ後しばらくは新刊が出版される可能性があるかもしれないが、それ以上は望めないこと。これは、ファンになったばかりの人間にとっては、非常につらいことだ。
さて、上記の文章を書いてから、一月以上が経った。今は、読み終えた直後のあの熱病に浮されたような熱狂の感覚は無くなって、代わりにしっとりと大地に貯えられた落葉の豊かさのようなものを感じている。苔むした深い森の中にいるような感じ。いい本を読み終えた時にはいつも感じるあの感覚。上の文章では『旅をする木』について全く言い足りていないので、もう少し書いてみようと思う。
アラスカという土地の美しさは、生命の美しさなのだと思う。などと、行ったこともない人間がそんなことを書くのはあまりにも気がひけるのだけれど、星野氏の文章や写真に触れていると、どうしてもそう感じられて仕方ないのだ。これは無論、星野道夫という人間の持っている美しさなのだけれど。
「何もないこの世界では、食べて、寝て、出来る限り暖かく自分のいのちを保ってゆくことが一番大切なのだ。」
生きてゆくのに過酷な環境であるからこそ、生きているというただそのことの大切さが、光を帯び明確に見えてくる。命の持つ力が、奇跡のような不思議さに満ちている。生と死がいかなるカモフラージュもなされずに丸裸のまま現前している。僕などの普段忘れているような光景である。生きてゆく意味などとそんな悠長な甘ったれたことを考えている暇などない、過ぎ去ってゆく一瞬一瞬を生き延びてゆくことの困難と喜び。安全と平和と安楽がゆきわたった都市生活者には知ることの出来ない喜びかもしれない。もちろん、都市には都市の問題があり生きてゆく困難や悲哀もあるが、それにしても総体的に見てやはり安楽だと言えると思う。あるいは、困難はあるけれども、それは本当に大切な何かを見失ってしまっていることから生じる困難だと言いかえることが出来るように思う。特に日本という国の都市では。だからこそ、このような国・時代・場所に生まれて幸福だと感じていられる一方で、常に漠然とした不安を人々は抱えているのではないのか。
戦争、飢餓、環境破壊、文明の抱える不安は、そのまま各個人が抱える不安でもある。だからこそ、個人の視点から、自分の立っている場所から、常に自分のあしもとを確認し意識しながら、遠くを見つめる目を持ちたい。この本は僕にとって、常にそのような目であり続けるだろう。
本当は、この本についても、星野氏のことについても、もっともっと何かを言いたいのだ、まだまだ言い足りないのだ、にもかかわらず何も言うことができないので、なんだか非常にもどかしい思いをしている。それが今の僕の気持ち。
この本、『旅をする木』は、非常にいい本です。書店であまり見かけることがないので、いつも残念に思っているのだけれど、できるだけ大勢の人が読んでくれたならと思っています。
だからもしこの文章を読んでくださったあなたが、『旅をする木』を読んでみようと思ってくれたら、僕にとってこんな嬉しいことはないのです。
Filed under: Impression | タグ: 星野道夫
Tail-Lagoon @ 00:00
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