星野道夫の言葉の力

『ノーザンライツ』星野道夫/新潮社
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星野道夫『ノーザンライツ (Northern Lights)』

(1997-08-06)

 もうすぐ星野道夫氏の一周忌がやって来る。長かったような、早かったような。ぼくなりに氏の逝去を悲しんだ一年だった。それにしても、その著書を通してしか知らない男の死を、単なる一読者でしかないはずの自分がなぜこうも悼み続けるか。今までこのような経験はなかったのに。これこそたぶん、星野道夫の言葉が持つ力なのだと思う。彼の文章の中にはいつでも優しい笑顔をした等身大の男の姿が見える。ひどく近しい場所、まるですぐそばに彼が立っているように。勿論、星野氏は写真家であり、彼の写真集はどれも見る者に深く感銘を与えずにはおかないのだけれど、それでも、ぼくが写真しか見たことがなかったならば、それほど影響はなかったと思う。写真もすばらしいけれど、それと同じくらいに大きいのは、やはり彼の言葉の力なのだ。

 星野道夫の文章は非常に平易である。本当にやさしくわかりやすい。漢字さえ知っていれば子供にだってそれなりに読めるだろう。もっと言ってしまえば、今時、普通なら恥ずかしくてとても書けないだろうと思うくらい純真純情な言葉が並んでいる。汚れたものが何もないのだ。誰にもとても真似などできないくらい。もし他の誰かがこんな文章を書いていたら、読者は赤面するか胡散臭そうに放り投げるに決まっている。にもかかわらず、星野道夫という男の書いた文章だから、それは非常に力強く深みがあって、真実なのだ。結局、信用ということなのだろうか。大自然を相手にしながら、美辞麗句を使用して大言壮語するわけではない、非常にささやかな感想を何となくはにかみながらぼそぼそと漏らしているような、そういう男が書く文章なら信用できないわけがない。

 変わりゆく自然を、過ぎ去った歴史を、年老いあるいは若くして亡くなってゆく人々を、惜しみながらも、常に現在という瞬間を肯定してゆく生命の力、軽やかで明るいオプティミズム、そのような人生に対する彼の態度もまた、その言葉に力を与え輝きを添えている。変わりゆく悲しみは年老いてゆく悲しみと共通している。しかし決して変化と老いとを否定はしない。むしろ積極的に肯定してゆこうとする。その上で、しかもなお、変わらずに守ってゆかなければいけないものは何かを見据えようとしている。そのため、星野道夫は見る者、見守る者である。長い長い時間をかけて。熊が冬眠から目覚め活動する瞬間を見るために、何日も待ち続ける。あるいはカリブーの季節移動を一カ所で待ち続ける。いつ通るかも知れない、もしかしたら通らないかも知れないのに。ただ待つだけの日々。それだけの余裕が彼にはある。彼は決して性急に結果を求めはしない、答えを出そうとはしない。

「混沌とした時代の中で、人間が抱えるさまざまな問題をつきつめてゆくと、私達はある無力感におそわれる。それは正しいひとつの答が見つからないからである。が、こうも思うのだ。正しい答など初めから存在しないのだと……。そう考えると少しホッとする。正しい答をださなくてもよいというのは、なぜかホッとするものだ。しかし、正しい答は見つからなくとも、その時代、時代で、より良い方向を模索してゆく責任はあるのだ。」

「ホッとする」なんて、とても率直で正直な感想だと思う。そして読者(ぼく)もまたこの文章によってホッとするのだ。

 幾冊かの著書で星野道夫が好んで繰り返し語るエピソードがあり、何度も登場する友人達がいる。彼の心深くに刻み込まれた記憶であり、彼の大切な思い出なのだろう。そしておそらく、そうした思い出ほど、その光景に立ち会うまでには、ただ待つだけの本当に長い時間が費やされたのであろう。その時間こそが自分にとって人生の本当の時間なのだ、待っている時間の長さがそのまま人生の豊かな時間の多さなのだと、そう言いたげなように思えるのは、せっかちでせわしない生活をしている者の嫉妬だろうか。待つだけの時間なんて全く無為な時間だ、そんな負け惜しみを言いながら、ぼくらは心の底でそれが嘘だと知っている。そして本当に大切なものは、目に見えるものよりも目に見えないものであるということも。

 もし我々に取り戻さなければいけないものがあるとしたら、それは星野道夫の言葉の力なのではないだろうか。複雑な修辞も凝った暗喩も必要としない本当の言葉、己の生の中で確実に裏打ちされた重みが織りなしてゆく言葉。都市においては既に死語となってしまった言葉達。

 この本はまた、アラスカの近代史としても読むことができる。古代から一足飛びに近代の波をぶつけられた土地の歴史。とは言っても、一般の歴史書とは違って(勿論もともと歴史書じゃないのだから当たり前か)、歴史(出来事)の側から人間を書かない。常に人間の側から歴史を書く。大地にしっかりと立った人間の目、それも彼にとってとても親しい人たちの目から見た歴史を語る。アラスカは単なる「自然の豊富な土地」なのではない。(1万年以上の長きに渡り)人が住み続けてきた土地である以上、当然そこには「歴史」が存在するのである。自然と関わり人が生きてゆく、その時間の積み重ね。人間の存在というのは「歴史」なのだ。我々が普段アラスカという土地を頭に思い描く時、圧倒的な自然にばかり思いが行きがちでついつい忘れている「歴史」の存在の重みが、この本を読み進めている間、いつも強く意識させられる。歴史は常に未来を指向して我々に何かを示唆する。そしてぼくらが考えなければならないことはたくさんある。

 ここまで書いたけれど、結局こんな風なことがらは全部余計なもの、蛇足に過ぎないので、我々はただ、読者としてそこに描かれた風景や物語を楽しみさえすればいいのだろう。なんて言うと、「散々長々と読ませといて今更何を言うか」とお怒りになられる方もいらっしゃるかと思う。今怒りに震えているあなた、そんなあなたこそ、その怒りを静めて清々しい気分になるためにも、ぜひこの本をお読みになって下さい。

 それからまた、別の著書に『森と氷河と鯨』(世界文化社)というのがある。こちらの方は紙質が良くカラー写真の多い贅沢な本だけれど、執筆時期が重なっている(どちらも著者の急逝のために未完)こともあって、同じエピソードが有ったり、何よりもそれぞれの話に付随した写真が非常に美しいので、併せて読んでみるのがいいかもしれない。

(1997-10-26)

「結果が、最初の思惑通りにならなくても、そこで過ごした時間は確実に存在する。そして最後に意味を持つのは、結果ではなく、過ごしてしまった、かけがえのないその時間である。」(『旅をする木』

 星野道夫の眼差しはとても優しい。それはおそらく、結果を重視し最優先する社会を離れてしまった者の眼差しだからだろう。ふと思うのだ。そもそも、時間には結果など無い。時間には、延々と過ぎ去って行く、その流れだけがあるのだと。生きていることとは、過ぎ去り続けることで、結果を出すことではないのだと。星野道夫は「時の流れを観照し続けた人」なのだと思う。氏のことを思う時、人の一生の短さが、何千年何万年という比較しようもない時間の流れに対して直に繋がっている、そのことをいつも再確認させられる気がする。

Tail-Lagoon @ 00:00

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