2005 8月の記事

複数者 »

 わたしは複数ある。複数のわたし。だがだからといってわたしはわたしの人称を複数形にしたりはしない。わたしはわたしのことを「われわれ」などと呼びはしないのだ。わたしはわたしをわたしと呼称すればそれで充分だと考えている。わたしはメニイであり、ワンではない。だがまたわたしは全でもなく個でもない。その中間にある有限のメニイであって、おそらく無限のメニイではない。それだけはわかっている。さて、わざわざそんなことを書くのは、ほかでもない、日記と称しつつもはやわたしとは一見何の関係もなさそうな記述が続いているこの現状に対して、少し弁明しておく必要を感じたせいだ。──つまり、わたしが複数であるということは、わたしはカメレオンであり北極熊でありオランウータンであり猫であり蠍であり麒麟であり、わたしがわたしであるところのいかなる生物でもありうるということなのだ。したがって、この断片的な日々の記述は、わたしと全く関係ないどころか、おおいにわたしに関連している記録であり、わたし自身の日記としてちゃんと成立しているということが言いたかったのである。わたしが結節点であるということは、とりもなおさず、紡がれ織り込まれたテクスト(テキスタイル)の全ての編み目・結び目・交差点に等しいということなのだ。この光学的な世界の斑な偏光の焦点の中にわたしがいる。

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「ふと思ったのですが、「わたしは死んだ」と生者が「言う」ことは可能ですが、死者が「言う」ことは不可能ですよね。ですがまた、生者が「わたしは死んだ」と言えば、それはとりもなおさず「嘘」になりますが、死者が言うなら「本当」です。偽は可能であり真は不可能であるというのは、すごく日常的なジレンマであり、かつ非日常的な状況下ではありえないジレンマです。……というような言葉遊びが連想されました。つまり日記というのは、破綻するために書くようなものなのですね。」

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猫 »

 路地裏に堆積する闇。その闇の底に一匹の猫がうずくまり、真円に見開いた黄金の瞳でじっと辺りを窺っている。背を丸め、影をまとい、大気に同化して、存在の一切、その黒いかすかな気配、その細く鋭い呼吸を楽々と気流に溶け込ませ、次なる一瞬の跳躍のために力を漲らせ、張りつめている。対流の僅かな変化に敏感に反応しながら、見えない獲物を待ち構えて電位を上げてゆき、時折その体表に(迂闊にも)青白い火花を迸らせる。

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カメレオン »

 塗りたくられた絵の具の湿った臭いが、カンバスの上を這いずり回るカメレオンの皮膚を刺激していた。体色の速やかな変化を繰り返しながら、カメレオンは次第に極彩色の怪物となってゆく。ぐりぐりと目を回し、酩酊し、いくつもの一瞬の永遠が過ぎ去ってゆき、宇宙のあらゆる色彩が混じり融け合い、彼の魂は白く輝き──彼の身体はやがて、黒く濁ったひとつの塊と化してしまった。

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北極熊 »

 北極熊が日傘を差して、のんびりと歩道橋を渡っていた。見咎める者など誰もいなかった。そのことで熊は非常にいい気になっていたらしい、すれちがう人間どもを太い腕と鋭い爪で薙ぎ倒した。殆どが即死だった。しかし死者達は、五秒後にはもう生き返り、何が起こったのか気付いていない様子で再び起き上がるのだった。北極熊はそんな生還者達に向かってウィンクすると、悠々と次の歩道橋を目指して歩き去った──傘をくるくると片手で器用に回しながら、相変わらず得意気に、のっそりのっそり白い巨体が遠ざかっていった。やがて、甦った被害者達も立ち去り、新たな横断者も現れず、誰もいなくなった歩道橋の上には、まだ赤々と鮮やかに惨劇の跡だけが残されていた。

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オランウータン »

 密林の奥。オランウータンが昼寝をしている。森が発生させた様々な色彩が彼の周りに寄りかかっている。やがて風が──あくびのような、それともためらいのような、目覚めの風が、彼のつぶれた鼻腔をくすぐる。くしゃみをこらえ、のびをして、彼はその思慮深い瞳を開く。樹木の枝葉の間から切れぎれに流れ込む青空の破片を、おもむろに大口を開けて受け止め、ゆっくりと噛み砕く。輝く長毛が、樹皮と擦れて、柔らかくほつれている。

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