2005/07/31(日)
時間を河に見立てるというのはよく行われる比喩である。だが、時間の河には二種類あるということはあまり知られていない。時間を河に喩える場合、必ずどちらかのタイプに属し、そしてそれを唯一の時間の河だと思い込んでいる。
第一の時間の河。それは、過去から未来へと流れる河だ。我々を含む全ての存在物はこの河の浮遊物となって、現在という名の周辺の水とともに押し流されてゆく。この河のはるか上流には、時間の水源が存在し、下流には茫漠と広がる可能性の海が待ち受けている。この河では、時間は上流から下流へと流れてゆく現在として表されている。そして我々浮遊物もまた湧水と同時に源泉で生まれ、海(海は常に終着点であり出発点である)へと旅を続ける。
第二の時間の河は、第一とは逆に、未来は上流からやってくる。我々はこの河の岸に、水流に洗われながら立ち尽す葦のようなものだ。葦の位置はこの現在という名の岸に固定され、不動である。上流の源泉では絶え間なく時間が生み出され、葦の岸へと押し寄せてくる。葦は尽きることなく下流/過去へと流れ去る水流をただ見送るだけだ。
どちらの時間の河も、水源の枯れた時が時間の尽きる時であり、宇宙の死ぬ時である。どちらのタイプでも、時間を比喩的に語ることにおいて遜色はない。ただ、時間の河に対峙して存在する我々の視点が、第一の河と第二の河では全く違うだけだ。見えてくる風景の差が、そのまま世界観の差となって表れる。下流へと旅をするにつれ様々な風景が展開される第一の河に棲む浮遊物の世界観は流動的であり、ひとつ所にじっと立ち続けて河の流れを観じている葦の世界観は安定している。前者の世界観はメニイ(多)の世界観であり、後者はワン(一)の世界観だと言うこともできるだろうか。
あなたはどちらのタイプかな? それとも、わたし同様、もはや時間を河に喩えるということをしなくなった人間に属するのだろうか。
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2005/07/29(金)
時間とは、変化を記述するための便法だとすれば、当然その最小単位は時子もしくは時量子として表現できる。時子(時量子)=それ以上時間を分割できない最小の時間。時子より小さな時間で変化しうるいかなる物質も存在しない。完全な不変=宇宙停止の一瞬。この小さな時間の中では、熱も光も移動(振動)せず、神すら思考を止める。完全な不変とはつまり完全な死のことである。停止した光はどこへも届かず、宇宙は完全な闇となる。……だとすればだ、時子の単位では、宇宙は存在していないということになる。そして、むろん我々もだ。
(註:物質の変化量が不連続な値を取る場合、その変化に要する時間も不連続な値を取る筈だという閃き。うまく説明できるかどうかわからないが)
(参考)量子 quantum: 一定の最小単位の整数倍という不連続な値をとる物理量の、その最小単位量。プランクの量子仮説で提唱され、エネルギー量子とよばれたが、のちアインシュタインらにより普遍的に適用できることがわかった。
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2005/07/07(木)
私は夜の世界の住人だ。私がどれほど太陽と雲と青空と海を愛していようとも、しかしそれ以上に私は夜を愛している。夜の闇は世界の全てを内包している。決して明るみに曝されず、ただ密かに事物は闇の中を漂い、時々淡い光を放って、僅か一瞬我々の注意を引いたかと思うとすぐにまた消え去り、沈潜してしまう。何もかもが静かに謎めく。静けさ──これがキーワードだ。雑音を取り払われて精神は冴え渡り、静かに興奮し、静かに熱を帯び、静かに発狂する。事物の輪郭が静かに現れ、静かに消える。そして命も。それが夜だ。私の夜。私が本当に棲息している場所はここにしかない。どれほど私が夜明けを、最初の曙光を待ち侘びようと、どれほど日没を惜しもうと、しかし一旦夜がやって来さえすれば、もう私はどっぷりと夜に浸かり、夜の虜囚となって、それ以外の世界など在り得ないかのように振る舞い、日向を忘れ去ってしまうのである。
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