2005 6月の記事

カラス »

Crow

 最近カラスの鳴き声をあまり聞かなくなった。なぜだろうと訝しんでいたら、ついに今日、その理由が判明した。やつら、とうとう人語を話すようになっていたんだ。

 歩いていたら、頭上で誰かが噂話をしてる声が聞こえた。それで何気なく声のほうを見上げたら、街路樹の枝にとまっていた一羽のカラスと目が合った。途端に声がやみ、カラスのやつ、しまったという顔つきをしていたよ。いかにもバツが悪そうにひと声「アホー」と鳴いたけどね、おれの目は誤魔化せないぜ。

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「カラスが人語を使うのはたぶん大昔からです。北米原住民達はワタリガラスが世界を創造したと語り伝えています。チェコには奇妙な物語を書き綴ったカラスさえいました(カフカはチェコ語でコガラスの意)。八咫烏は太陽の中にいる三本足のカラスで天の使者だと言いますから、人の言葉くらい簡単に使いこなしていたでしょうし」

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記憶 »

 さっきまで何を考えていたのか全く思い出せない。それはつまり、何かを考えていたということか、それとも何も考えていなかったということか? 失われたのはアイディアか、記憶か、それとも時間か? それで今こうして書き記しているということは、我を取り戻したということか? 自分を取り戻すとはいったいこれはまたどういうことだろう。自分というのはそんなに頻繁になくしたり取り戻したりできるようなものなのだろうか。だとすれば、自己同一性などというのは、結構怪しい概念ではないか。自分という存在が、全く断続的で、一枚おきに頁を破り取られた書物のようなものだとするなら、どうしてそこに人生の連続性を見出しうるというのか? そういえば日野啓三がなめらかで継起的に繋がった「自伝」なるものを疑っていたな。人生を筋の通った因果の道のように書くのは虚偽だ。記憶なんて、ところどころスポットライトが当たった闇のようなものだと、もしかしたら言葉は違うかもしれないが、そんな意味のことをどこかに書いていたな。切れ切れの記憶、途切れ途切れの自己、覚えていない箇所では、死んでいたのかもしれないな、少なくとも生きていたという証拠もない。そうだ、夜毎眠りに就くことだって、小規模の死と再生だと古代エジプト人はそう信じていたんじゃなかったっけな。

 五万年の記憶を、我々は伝承してきたんだ──数千浬離れた者同士で会話ができる鯨達のネットワークなら、あるいは人間のおよびもつかない記憶を形成しているかもしれない。数千里離れた者同士の通信手段を、人類は最近(多く見積もっても僅か数千年というところだろう)漸く手に入れたばかりだけれど。

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地平線と水平線 »

 理想化されたまっすぐな海岸線に立ち、波打ち際に平行に視線を向ける。海は青く、空も蒼く、陸地はただなだらかな砂浜が果てもなく続く。山もなく、船もなく、霧もなく、建物もなく、林も森もない、視界を遮る介在物の一切ない景観で、正面に延々と引かれた陸と海との境界線。その消失点(vanishing point)では、水平線と地平線も一点に交わり、視野の全域には湾曲したT字によって区切られた空と陸と海が見える筈だ。そのような純度の高い風景を、この惑星上のどこかで見ることができるだろうか。

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守宮の王国 »

 明け方、きょきょきょきょという甲高い奇妙な泣き声が聞こえた気がした。寝苦しさに目を覚ますと、天井に大きなヤモリが貼り付いて、ぼくをじっと見守っていた。黒く丸い瞳が窓からの僅かな光を反射させて煌めいた。するとヤモリはどういうつもりからか、ぼくに驚くべき重大な秘密を打ち明けてくれた。

 このマンションのエレベーターシャフトは、彼らヤモリ族の王国になっているそうだ。誰からも見られない暗いコンクリートの壁一面に、彼らの仲間がびっしりと犇めいて、昼間中じっとしているのだという。そして夜になると、するするとすばしこくシャフトから這い出し、各住戸の寝室に忍び込んでは、今ぼくにしていたように、人々の寝顔を見守っているのだという。

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架空の空白 »

 架空の日記に空白の日々が続いている。

 では、それらの空白は架空の空白ということになるのだろうか。

 架空の空白に何ビットの情報が含まれているのかを計算してみたまえ。と上司に命じられ、計算士はいそいそと席に着く。遠くで正午の鐘の音が鳴る。昼食を摂るためにぞろぞろと席を立つ同僚達をよそに、彼は真夜中の葬列(それらは延々と続く数字の行列だ)が消え去るまでは、席を離れ計算をやめることはない。

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