2005/10/20(木)
日記を毎日ちゃんと書いている筈なのに、気がつけば日付が飛び飛びになっている。なぜなのだろうか。もしコンピュータの日付が正しいとすれば、ぼくの一日は世界の一日と食い違っていることになる。ぼくが一日過ごす間に、世界では数日の時が経過しているということか。
相対論によれば、時間の進み方は一様ではなく、局所的に変化する。運動する速度が速ければ速いほど時間の進み具合は遅くなり、光速では時間は停止する。だが、ぼくの運動速度は他人とそれほど大きくは変わらない筈だから、この説明は却下するほかない。
それとも臨床上の問題だろうか。例えば、数日起きに発生する記憶喪失とかあるいは多重人格。意識がぶっ飛んでいるあいだのぼくは、他者であり、その他者は日記をつける習慣など持たないのだろう。と、そのような推測も成り立つわけだ。
だが、もっと簡単な説明があることに気付いた。この架空の日記の架空の記述者であるぼくは、著者が怠けている時には実在し得ない、架空の存在でしかないということだ。ぼくの身体は絵空事でしかない。もっとも、記述する内容からして既に、とてもリアルな身体性を持ち合わせているとは言い難いわけだが、空白の日々を連ねることによって、ぼくの質量はますます希薄になってしまう。これが予めぼくに与えられている存在条件であり、自分自身ではどうすることもできない定めだ。──いや、そもそも存在とは物質がある時間と空間を占有している状態のことを指すのではなかったか。だとすれば、ぼくは空間を占有せず、時間においても切れ切れの不連続な仕方でしか出現しないのだから、ぼくは存在しないということにさえなるわけだ。
こうしてぼくは非在を生きる。世界中の数多の虚構の登場人物達と同様に。それでもこうして生きている以上、不連続な非在の日々には、ぼくは死んでいるということになるのだろう。
しかし、これを読んでいるリアルなあなたにひとつ忠告しておくが、事情はあなただってさして違わないのだ。睡眠によって寸断された不連続の意識によって、あなたの自我が構築されている以上、あなたもまたあなたの非在を許容している=死んでいる時間を保有しているということなのだから。
あなたは夜毎訪れる休止と夢によって断片化され、その前後の同一性は証明しえない。ただ、他者としての観察によってのみ、同一性の保証を推測しているに過ぎないわけだ。
まあそんなわけで、ぼくの非在は文字通り「死」あるいは「無」の意味だが、あなたの非在はせいぜい「仮死」でしかないと、そのように区別したいのであればお好きにどうぞ。架空の記述者であるぼくからしてみれば、どちらも区別がないように思えるけどね。
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2005/10/16(日)
虹の架かった空を鳶が横切る。プリズムの洗礼を受け、海面からたちのぼる水蒸気がむせかえる中できりもみした後、ふいに鳶は固定された生と時間のフレームを切り裂くように翼を閃かせて一直線に加速する。鳶は今、その全身・全存在を限りなく拡散させて、150億光年を駆け抜けてきたのだ。一瞬の永遠が通り過ぎたその名残に、羽毛にはまだ宇宙塵が付着している。
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2005/10/11(火)
隠された半島の、岬の突端で、漠然と海を眺め空を仰ぎ、草を貪り喰らって生きてきただけのおとなしい山羊が、その最後の一本を食い尽くして、ある日断崖から飛び降りた。自由落下の力学的法則に身を完全に委ねて何の抵抗もせず、四肢をまっすぐに伸ばしたまま固定された彼の姿が、真っ白で滑らかな放物線の軌跡を描く。この純粋な軌跡こそが山羊の生命の完結した形であった。やがて水面に到達。山羊の生きてきた質量に見合うだけの水柱が、一瞬の白いオベリスクとして立ち上がった。そしてもう次の瞬間には既に、岩肌をあらわに剥き出したその岬では、山羊の不在が始まっていた。(あるいは時間の不在が‥‥‥)
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2005/10/05(水)
晴れた空を眺めていた。羊飼いに追われる羊のように、雲が一斉に西に向かって移動していた。だが、注意深く見つめていると、群の中で、たったひとつの雲だけが、他とは正反対の方角へと飛んでいくのを発見した。あるいは自らの意思と関わりなく、何か運命のような力によって流されていたのかもしれないが、よくはわからない(それに私はどうしても運命論者にはなれない)。風に逆らって動いているせいか、その特異な雲は見る見るうちに千切れて小さくなってゆき、最後には無数の水の粒子となって拡散し、他の雲達に呑み込まれてしまった。たぶんあの雲の臨終を見届けたのは私だけだったろうし、もはやあの雲の消息を知るものは誰もいない。もっとも、雲を、我々の目に見える形によって個として認識することをやめてしまえば、雲の最期などという擬人的な事件など全く存在しなかったことになるわけだが。
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2005/09/25(日)
時間を水平方向の動きに例えるならば、その運動の方向は後から前へということになるだろう。このイメージはたぶん万人に共通の筈だ。では垂直方向の動きに例えた時は? 時代を下るとか遡るとか言うように、時間は上方から下方へ向かって落ちてゆくものだ。落下する水滴のイメージ。それに、これは私だけのことかもしれないが、日本のような縦書きの文化においては、上から下へと文字を追い続けるうちに時間も進んでいく以上、少なくとも文学的表現としては、時間というものは下降するものなのだ。と、私はずっとそう信じこんでいたのである。ところが驚いたことに、どうやら現代においては、時間というのは上昇するものらしいのだ。ある書物にそのように書かれているのを読んで、私は結構衝撃を受けた。つまり、近代・現代において、時間の流れはそのまま進歩・進化のイメージと重なり、ヒトという種が進化の頂点に位置しているというおめでたい錯覚と相俟って、下方から上方へと、天の高みを目指して昇っていくものとして捉えられているというのである。時間について考えようとする時、どうしても空間的な比喩を使用して考えざるを得ない、そういう一面が私達の中に伝統的に巣食っているとは常々思ってきたことだけれど、まさかその比喩がまったくあべこべに考えられているとは知らなかった。ああびっくりしたびっくりした。私はどうやら時間からも置いてきぼりにされて、現代人に属さない人間ということらしい。とはいえ、過去に属することだって時間の不可逆性によって禁じられているわけだから、つまるところ私はどこにも所属できないというわけか。そら困った。時間厳守。同時行動。それが社会生活の掟なら、他者と違う時間の流れに生きることは許されまい。いやそれとも、そのような機械時計のルールから脱却できたことをむしろ喜ぶべきなのか。脱却できたのなら喜ぶべきだろうが、今もこうして囚われたままになっている以上、たいして喜ぶべきことでもないだろう。それどころか人と協調すべき時に協調すべき共通の時間イメージを持っていないのならば、苦労の方が多かろう。えらいこっちゃえらいこっちゃ。道理で何だかおかしいとは思っていたんだいつもいつも。何でか知らんがどうも人とうまく時間が合わない。合わないのを無理矢理我慢して合わせているから、だからこんなにしんどかったのか。どうしてだろうなぜなんだろうと思っていたのさいつもいつも。そうかそういうことだったのか。なるほどなるほど漸く判った。とまあかくも大げさにとりとめのない焦燥と、こんにちはブルーマンデー、まもなく月曜日の朝がやってくるために、すっかり意気消沈しながらも、やっぱり私の時間は天からの落下を続けているのだった。ねえもしあなたの垂直時間が上から下へと流れているならあなたは私と同類なのだし、もし万が一あなたの水平時間が前から後へと流れているようならば、既にあなたは私なんかよりももっと危険な状態にあるということなのだから、もしそうだったらかなり注意深く気をつけて生きた方がいいですよ。余計なお世話かもしれないが、念のため。こんなたわけた報告があったっていいと思ったものでね。 (020708)
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2005/09/22(木)
岩影に蠍が尾を高々と振り上げて獲物を待ちかまえている。白昼の砂漠。在るのは陽炎に揺らぐ地平線と熱風がもたらす完全な乾燥だけ。命無き者のようにただじっと獲物を待ち続けるほか蠍には何もすることがない。だが、獲物を待つ、その一瞬一瞬、それこそが蠍の生なのである。そして今、風は途切れ、砂は転がり滑るのを止め、地形の輪郭は明確に研ぎ澄まされ、影が己の境界線を黒々と静止させる。砂の一粒一粒が克明に存在の色を明らかにして、塵を大量に含んだ空の粒子と対立し、身動きひとつしない蠍を同化させる。蠍は待つ。生命の単調。その退屈な緊張。跳ね弾ける寸前の姿勢のままで保たれた持続する生。時間は止まっているかのように過ぎてゆく。太陽が過酷な視線を彼に投げかけ、彼の眼の中で世界は、全てが赤く虚ろに燃える。
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2005/09/09(金)
台風が去り、天が高くなった。馬が肥えた。秋だなあ。肥大した馬は豚と見分けがつかなくなり、私の顔は他人と区別がつかなくなった。たぶん私は今、鏡像段階以前の状態へと溯行しているのだ。やがて私は身体を失うのかもしれない。かわりに手に入れるのは──身体を失った者が手に入れるという表現を使用するのは矛盾しているようだが──夥しい不条理の群体/軍隊とそれらが築きあげた無数の屍だろう。秋は死を準備する季節だから。
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2005/09/08(木)
星の無数に瞬く砂漠の夜。日中の過酷な運搬労働から解放された駱駝が、長い睫毛を震わせて寝そべっていた。皮下に染み込んだ白昼の灼熱を、今は少しずつ背中のこぶから逃がしているところだ。彼の放出する陽精の名残が、暗い大気を掻き乱し、速やかに化合して、青白い影をたちのぼらせた。太古からの風が吹きつけ、砂中深く埋没した都市の亡霊が天幕に浮かび上がった。砂のさざめきに洗われ呑み込まれて幾世紀を経過した日乾煉瓦の、その街並みの一切が宙へとうねるように投影され、そして記憶に彫刻された。音符のように配列された楔形文字の記憶として。──駱駝はそれまでずっと背中に感じ続けていた人荷の重さを忘れ、砂丘の緩やかな下降線に自らの生命を重ね合わせた。真昼の夢は流星となって消えていった。
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2005/09/06(火)
錯乱の夕べに蝙蝠が放つ超音波は、洞窟に反響し、地殻で凝固する。そこに生み出された時間の歪みを、再び、鋭い耳で彼らが捉える。いつまでも繰り返される微細な振動信号のやりとりを無視して、青い光のアーチが中空に架けられている。
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2005/09/05(月)
とある美術展へ行ってきた。だが、何の美術展だったのか、どこで開催されていたのか、名称も地理もはっきりとは答えられない。というのも、その美術館は夢の中に構築されたものだったから。行きたいと思って行けるようなものではなく、逆に行きたくないと思っていても勝手に行き着いてしまうような、そういう美術館だった。いやそもそも、それが本当に美術館と呼べるような、固有の外殻を持った建造物であったかどうかもよくわからない。気がつけば既に回廊のような展示空間にさ迷い込んでしまっているからで、始めも終わりもない迷宮のような内部空間しか存在しないのではないかと思う。おそらく外観/外部など必要ないのだ。もっとも、こんなことが言えるのは、覚醒後の後知恵でしかないのだが。
ともかく、そこで色々な展示品を見た筈なのだが、いったい何を見たのかさっぱり思い出せない。入場料など要らないかわりに、見たものを全て記憶したまま抜け出すことが難しいようになっている。夢のシステム(夢のようなシステムではなく、文字通りの意味)を利用して、来館者にとって最も印象の強い一点だけを特に記憶して持ち帰る仕組みらしい。
ぼくが覚えている一点のみの作品とは、マグリットの「これはパイプではない」のパロディ作品だった。絵は確かにマグリットの「パイプ」そのものなのだが、タイトルが違う。「これはパイプである」とあからさまに示してあるのだ。どういうことだろうと訝しんでよくよく見ると、絵の額縁には手の込んだ仕掛けが施されていた。円筒状の塩ビ管が絵の周囲に張り巡らされ、剥き出しになった建築設備の配管に絵が巻き付かれたような具合になっている。しかも、絡まった配管の迷路を目で追ってゆくと、管の一方の端部には吸い口が嵌め込まれており、もう一方の端部にはきちんと火皿を上に向けたボールが突き出していた。とそこまでぼくが見定めると、その様子をどこかで見張っていたらしく、若い監視員の女性が近づいてきた。ぼくが何も言わないうちから、「ええそうなんですよ」と訳知り顔で頷いて、手際よく煙草を詰め、火をつけた。それからもう一方の端部へ移動して、少しエロティックな表情で吸い口をくわえる。しばらく奮闘していた(何しろ長いパイプだから、端から端まで煙を届けるのは結構きつい作業の筈だ)が、やがて口腔および鼻腔からふうっと大きく紫煙を吐き出した。火皿の方からも、ちゃんと煙が出ている。女は得意そうな顔で「これはパイプである」と宣って、実演を終了したのだった。
ぼくが覚えているのは以上である。夢の中にいる間はなかなか面白い展示だと感じたが、完全に目覚めてしまった今では、さほど面白くもない。ただ、あの美術館には、できればもう一度行ってみたいと思う。
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