2006/08/16(水)
およそ殆どの生物が、生存上の確固としたルーティン・システムを持っているのに、どうしたわけかヒトだけは、そのようなものを持たない。おかげで、互いに狂ったサイクルが不協和音を鳴り響かせ、やがて自滅するほかないような、悲観的な状況下にあってさえ、何のために何をするのかさっぱりわからず、ただおろおろするか殺し合うかするほかないのだ。すなわち、ヒトの生存だけが疑わしい──生き残る可能性が疑わしいのではなく、生存そのものに疑念がかかっているのだ。自ら疑わしく他を見ても疑わしく、種としての調和(殺戮や残酷さを含めた上での調和)がないように感じるのだが、どうか。いかなる疑いもなく喰い眠り交わり子を生し死んでゆく率直で潔い他の生物たちを見るにつけ、ますますぼくはヒトとしての自分にただ戸惑うほかなくなるのだ。
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2006/08/15(火)
あの人の亡骸を花園に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を下水管に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を机の引き出しに捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を金魚鉢に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を暗がりに捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を屋上に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を議事堂に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を鍵穴に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を電車の網棚に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を廊下か階段に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を鍋に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を右目の奥に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を図書館に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を五次元に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を試験管に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を憶測の上辺に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を履歴書の行間に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を群衆の足下に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を金星に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を銀行の金庫に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸を広告チラシの裏に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
あの人の亡骸をソファの下に捨てよう。そこだけがあの人の墓標に相応しい。
ああ、あの人の亡骸をどこに捨てよう。この世のどこにもあの人の墓標に相応しい場所がない。
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2006/07/05(水)
若い頃の私は、毎日浮遊していた。手応えのない現実に苛立ち、焦燥していた。霞がかった膜の中に閉じ込められて、一点の穴を開けようともがいていた。
ところが今日(こんにち)の私は、気がつけば仕事と生活に打ちのめされ、完全に地に這いつくばって、もはや僅かの浮遊も望むべくもない。完全な逆転。いったいかつての私はどのようにして、この重苦しい肉体と心を、いかなる支えもなく空に浮かべていられたのだろうか。
着地を必要としない生活も苦しいが、離陸を不能とする生活もまた苦しいものだ。つまり生きるということは常に苦しいということか。いや、習慣となることが苦しいのだ。自由とはおそらく、どちらの様態をも取りうる中間項、絶えず不連続の跳躍と潜伏を繰り返す第三項の中にあるのだ。と、少なくとも今はそう考えてみるしかない。
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2006/06/07(水)

最近、ルドンの蜘蛛の子を部屋の中で放し飼いにしている。細く長い十本の足を持つ人面の蟲は、いつも底の知れないにやにや笑いをしているのだが、それは生まれつきそういう表情なのであって、特に意味はないのだ。とにかく落ち着きなく、やたら壁や天井を這い回っては幸福そうにしている。ただ、ぼくが夜眠ろうとする時など、真っ暗な部屋の中をかさこそと動き回る音が気になって眠れないことがある。そのせいで不眠症気味になってしまった。そこでつい先日、ぼくは一計を案じて、蜘蛛の子にホフマンの砂男の話を聞かせてやった。さっさと眠らないと、きみのその自慢の真ん丸目玉を、砂男がえぐり出しにやってくるぞ、だからぼくが眠る時は、きみもその目をしっかり閉じて、静かにしなければいけないよ、と。いったいぼくの話を理解したものかどうか、この数日間は、ぼくが就寝しようとすると大人しくしてくれるようにはなった。ただ、ぼくが完全に熟睡した頃を見計らってから、再び動き回っているようなのだが。今朝起きたときは、蜘蛛の子はぼくの顔に乗って、その細長い足でぼくの目を今にも突き刺そうとしているところだった。危ないところだった。どうやら彼のつたない理解力のために、ホフマンの話は彼をして、自分が砂男だと思い込ませてしまったらしい。全く困ったものだ。どうやってこの誤解を解いたらいいものか。眠っている間に、眼球をほじくり出されてはたまらない。これでまた不眠の夜が続くことになるのだろう。
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2006/03/26(日)

面白い書物を見つけた。
有限の頁数から構成されているが、しかし初めの頁も終わりの頁も持たない本。文字通り円環をなす書物(もちろんノンブルなど打たれていない)。どこから読み始めても構わず、物語はすべての頁から始まり、すべての頁へと連続し、そして必ず読み始めた頁へと戻ってくるのだ。ブーメランのように。
ただし、書籍デザインとしては最悪かもしれない。横向きにしてハンドルでも付ければ、オフィスの机上に置いてあった回転式アドレス帳のようだ。
やはり本は、表紙と背を持ってきちんと装幀されていなければならない。その点、ボルヘスの「砂の本」のように、無限の頁を内包しながら、ちゃんと書物としての体裁が整っている方が興味をそそられる。
だいたいこの本、どういう姿勢で読めばいいのだ。持つのも大変だし、立てたままでは読みづらい。それに保管する時だって、普通の書棚じゃ無理。
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2006/02/01(水)
結節点としての私とは、ここに書いている間だけ存在している一人称のことだ。欠落した時間と記憶? そうではない。無にあるとき、時間も記憶もまた無であるから。つまり、他者(の時間)とは無縁に、結節点は連続した自己の意識(アイデンティティ)を保有しているのである。
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2006/01/07(土)
ふと目が覚める。凍っている手足を怖々動かしてみる。様子がおかしい。そう思ってよく見ると、手足が逆に入れ替わっている。いや、違う。正しい位置にちゃんと付いている。入れ替わったのは神経の方らしい。慌てて結線し直す。ようやくまともに動くようになった。安心して、再度眠りにつく。
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2005/11/08(火)
あまりに蛙どもがうるさいので、投網を打ってすべて捕えた。一網打尽。数えたら全部で205匹もいた。特に肥えたのを50匹ばかり選り分けて、残りは窓から逃がしてやった。13階の窓からだから、地面に墜落した蛙が無事かどうかはわからない。もし地上で大量の潰れた死骸に出くわしたら厭なので、暫く窓側の道は通らないことにしようと決めた。さて、選ばれし50匹ほどの蛙どもは、丁寧に皮をはいで唐揚げにした。蛙料理は素人だから、若干臭みが残ったが、そこそこいける。しかし流石に全部は食い切れなかったので、同じ階の住人達に配って回った。蛙なんて言ったら誰も貰ってくれない気がしたので、鶏の唐揚げと偽って、各戸に5・6匹ずつおすそわけ。こうやって恩を売っておけば、次の各階委員(要するに雑用係)選出の際は、うまく切り抜けられるだろう。蛙どものせいでこの数日間不眠に悩まされてきたが、最期にはこうして役に立ってくれたので、許してやることにした。これで今夜からはぐっすり眠れるだろう。
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2005/11/05(土)
今夜は何百匹、何千匹という蛙の鳴き声が、部屋に響き渡っていた。美しくもなく、楽しくもなく、ぐぇぐぇぐゎぐゎと果てしのないダミ声の大合唱に、俺はかなり気分が滅入ってしまった。ベッドの下、天井の裏、キッチンの吊戸棚、冷蔵庫や壁の中、テレビからも、鞄からも、部屋中いたるところで奴等が頬っぺただの腹だの目玉だのを風船ガムのように膨らましては鳴き騒いでいた。だが、そんなただやかましいだけの蛙の鳴き声が、聞き慣れてくると、なぜかとても物悲しく思えてくるのはいったいどうしたわけだろう。そうだ、俺は思いだした、あれはまだ戦争などない時代のことだった、あれはまだヒトなど存在していない時代だった、俺はたった一人洞窟の中にいて、闇に蹲っていたっけか。洞窟の中はその夜じゅう、反響で小刻みに震えていたっけか。巨大な洞は天然の楽器となって、地響きのような底深い音を辺りに撒散らしていたよなあ。月も星も火も、この世の明るい物はすべて、その騒音に耐えかねて逃げ出し、洞窟の内も外も変わらぬ真の闇に包まれて、いつしか俺までも蛙の仲間になって夜通しぐぇぐぇぐゎぐゎと歌い続けていたんだった。そうだ、あの朝日が差し込むまで、絶え間なく無我夢中で啼き続けたのだ。そうだ、もしあの太陽が昇らなかったら、俺はきっとそのまま蛙になってしまっていたに違いない。もしそうなっていたら、今この世には人間など一人も生まれていなかったろうに。
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2005/10/20(木)
日記を毎日ちゃんと書いている筈なのに、気がつけば日付が飛び飛びになっている。なぜなのだろうか。もしコンピュータの日付が正しいとすれば、ぼくの一日は世界の一日と食い違っていることになる。ぼくが一日過ごす間に、世界では数日の時が経過しているということか。
相対論によれば、時間の進み方は一様ではなく、局所的に変化する。運動する速度が速ければ速いほど時間の進み具合は遅くなり、光速では時間は停止する。だが、ぼくの運動速度は他人とそれほど大きくは変わらない筈だから、この説明は却下するほかない。
それとも臨床上の問題だろうか。例えば、数日起きに発生する記憶喪失とかあるいは多重人格。意識がぶっ飛んでいるあいだのぼくは、他者であり、その他者は日記をつける習慣など持たないのだろう。と、そのような推測も成り立つわけだ。
だが、もっと簡単な説明があることに気付いた。この架空の日記の架空の記述者であるぼくは、著者が怠けている時には実在し得ない、架空の存在でしかないということだ。ぼくの身体は絵空事でしかない。もっとも、記述する内容からして既に、とてもリアルな身体性を持ち合わせているとは言い難いわけだが、空白の日々を連ねることによって、ぼくの質量はますます希薄になってしまう。これが予めぼくに与えられている存在条件であり、自分自身ではどうすることもできない定めだ。──いや、そもそも存在とは物質がある時間と空間を占有している状態のことを指すのではなかったか。だとすれば、ぼくは空間を占有せず、時間においても切れ切れの不連続な仕方でしか出現しないのだから、ぼくは存在しないということにさえなるわけだ。
こうしてぼくは非在を生きる。世界中の数多の虚構の登場人物達と同様に。それでもこうして生きている以上、不連続な非在の日々には、ぼくは死んでいるということになるのだろう。
しかし、これを読んでいるリアルなあなたにひとつ忠告しておくが、事情はあなただってさして違わないのだ。睡眠によって寸断された不連続の意識によって、あなたの自我が構築されている以上、あなたもまたあなたの非在を許容している=死んでいる時間を保有しているということなのだから。
あなたは夜毎訪れる休止と夢によって断片化され、その前後の同一性は証明しえない。ただ、他者としての観察によってのみ、同一性の保証を推測しているに過ぎないわけだ。
まあそんなわけで、ぼくの非在は文字通り「死」あるいは「無」の意味だが、あなたの非在はせいぜい「仮死」でしかないと、そのように区別したいのであればお好きにどうぞ。架空の記述者であるぼくからしてみれば、どちらも区別がないように思えるけどね。
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2005/10/16(日)
虹の架かった空を鳶が横切る。プリズムの洗礼を受け、海面からたちのぼる水蒸気がむせかえる中できりもみした後、ふいに鳶は固定された生と時間のフレームを切り裂くように翼を閃かせて一直線に加速する。鳶は今、その全身・全存在を限りなく拡散させて、150億光年を駆け抜けてきたのだ。一瞬の永遠が通り過ぎたその名残に、羽毛にはまだ宇宙塵が付着している。
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2005/10/11(火)
隠された半島の、岬の突端で、漠然と海を眺め空を仰ぎ、草を貪り喰らって生きてきただけのおとなしい山羊が、その最後の一本を食い尽くして、ある日断崖から飛び降りた。自由落下の力学的法則に身を完全に委ねて何の抵抗もせず、四肢をまっすぐに伸ばしたまま固定された彼の姿が、真っ白で滑らかな放物線の軌跡を描く。この純粋な軌跡こそが山羊の生命の完結した形であった。やがて水面に到達。山羊の生きてきた質量に見合うだけの水柱が、一瞬の白いオベリスクとして立ち上がった。そしてもう次の瞬間には既に、岩肌をあらわに剥き出したその岬では、山羊の不在が始まっていた。(あるいは時間の不在が‥‥‥)
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2005/10/05(水)
晴れた空を眺めていた。羊飼いに追われる羊のように、雲が一斉に西に向かって移動していた。だが、注意深く見つめていると、群の中で、たったひとつの雲だけが、他とは正反対の方角へと飛んでいくのを発見した。あるいは自らの意思と関わりなく、何か運命のような力によって流されていたのかもしれないが、よくはわからない(それに私はどうしても運命論者にはなれない)。風に逆らって動いているせいか、その特異な雲は見る見るうちに千切れて小さくなってゆき、最後には無数の水の粒子となって拡散し、他の雲達に呑み込まれてしまった。たぶんあの雲の臨終を見届けたのは私だけだったろうし、もはやあの雲の消息を知るものは誰もいない。もっとも、雲を、我々の目に見える形によって個として認識することをやめてしまえば、雲の最期などという擬人的な事件など全く存在しなかったことになるわけだが。
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2005/09/25(日)
時間を水平方向の動きに例えるならば、その運動の方向は後から前へということになるだろう。このイメージはたぶん万人に共通の筈だ。では垂直方向の動きに例えた時は? 時代を下るとか遡るとか言うように、時間は上方から下方へ向かって落ちてゆくものだ。落下する水滴のイメージ。それに、これは私だけのことかもしれないが、日本のような縦書きの文化においては、上から下へと文字を追い続けるうちに時間も進んでいく以上、少なくとも文学的表現としては、時間というものは下降するものなのだ。と、私はずっとそう信じこんでいたのである。ところが驚いたことに、どうやら現代においては、時間というのは上昇するものらしいのだ。ある書物にそのように書かれているのを読んで、私は結構衝撃を受けた。つまり、近代・現代において、時間の流れはそのまま進歩・進化のイメージと重なり、ヒトという種が進化の頂点に位置しているというおめでたい錯覚と相俟って、下方から上方へと、天の高みを目指して昇っていくものとして捉えられているというのである。時間について考えようとする時、どうしても空間的な比喩を使用して考えざるを得ない、そういう一面が私達の中に伝統的に巣食っているとは常々思ってきたことだけれど、まさかその比喩がまったくあべこべに考えられているとは知らなかった。ああびっくりしたびっくりした。私はどうやら時間からも置いてきぼりにされて、現代人に属さない人間ということらしい。とはいえ、過去に属することだって時間の不可逆性によって禁じられているわけだから、つまるところ私はどこにも所属できないというわけか。そら困った。時間厳守。同時行動。それが社会生活の掟なら、他者と違う時間の流れに生きることは許されまい。いやそれとも、そのような機械時計のルールから脱却できたことをむしろ喜ぶべきなのか。脱却できたのなら喜ぶべきだろうが、今もこうして囚われたままになっている以上、たいして喜ぶべきことでもないだろう。それどころか人と協調すべき時に協調すべき共通の時間イメージを持っていないのならば、苦労の方が多かろう。えらいこっちゃえらいこっちゃ。道理で何だかおかしいとは思っていたんだいつもいつも。何でか知らんがどうも人とうまく時間が合わない。合わないのを無理矢理我慢して合わせているから、だからこんなにしんどかったのか。どうしてだろうなぜなんだろうと思っていたのさいつもいつも。そうかそういうことだったのか。なるほどなるほど漸く判った。とまあかくも大げさにとりとめのない焦燥と、こんにちはブルーマンデー、まもなく月曜日の朝がやってくるために、すっかり意気消沈しながらも、やっぱり私の時間は天からの落下を続けているのだった。ねえもしあなたの垂直時間が上から下へと流れているならあなたは私と同類なのだし、もし万が一あなたの水平時間が前から後へと流れているようならば、既にあなたは私なんかよりももっと危険な状態にあるということなのだから、もしそうだったらかなり注意深く気をつけて生きた方がいいですよ。余計なお世話かもしれないが、念のため。こんなたわけた報告があったっていいと思ったものでね。 (020708)
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2005/09/22(木)
岩影に蠍が尾を高々と振り上げて獲物を待ちかまえている。白昼の砂漠。在るのは陽炎に揺らぐ地平線と熱風がもたらす完全な乾燥だけ。命無き者のようにただじっと獲物を待ち続けるほか蠍には何もすることがない。だが、獲物を待つ、その一瞬一瞬、それこそが蠍の生なのである。そして今、風は途切れ、砂は転がり滑るのを止め、地形の輪郭は明確に研ぎ澄まされ、影が己の境界線を黒々と静止させる。砂の一粒一粒が克明に存在の色を明らかにして、塵を大量に含んだ空の粒子と対立し、身動きひとつしない蠍を同化させる。蠍は待つ。生命の単調。その退屈な緊張。跳ね弾ける寸前の姿勢のままで保たれた持続する生。時間は止まっているかのように過ぎてゆく。太陽が過酷な視線を彼に投げかけ、彼の眼の中で世界は、全てが赤く虚ろに燃える。
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2005/09/09(金)
台風が去り、天が高くなった。馬が肥えた。秋だなあ。肥大した馬は豚と見分けがつかなくなり、私の顔は他人と区別がつかなくなった。たぶん私は今、鏡像段階以前の状態へと溯行しているのだ。やがて私は身体を失うのかもしれない。かわりに手に入れるのは──身体を失った者が手に入れるという表現を使用するのは矛盾しているようだが──夥しい不条理の群体/軍隊とそれらが築きあげた無数の屍だろう。秋は死を準備する季節だから。
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2005/09/08(木)
星の無数に瞬く砂漠の夜。日中の過酷な運搬労働から解放された駱駝が、長い睫毛を震わせて寝そべっていた。皮下に染み込んだ白昼の灼熱を、今は少しずつ背中のこぶから逃がしているところだ。彼の放出する陽精の名残が、暗い大気を掻き乱し、速やかに化合して、青白い影をたちのぼらせた。太古からの風が吹きつけ、砂中深く埋没した都市の亡霊が天幕に浮かび上がった。砂のさざめきに洗われ呑み込まれて幾世紀を経過した日乾煉瓦の、その街並みの一切が宙へとうねるように投影され、そして記憶に彫刻された。音符のように配列された楔形文字の記憶として。──駱駝はそれまでずっと背中に感じ続けていた人荷の重さを忘れ、砂丘の緩やかな下降線に自らの生命を重ね合わせた。真昼の夢は流星となって消えていった。
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2005/09/06(火)
錯乱の夕べに蝙蝠が放つ超音波は、洞窟に反響し、地殻で凝固する。そこに生み出された時間の歪みを、再び、鋭い耳で彼らが捉える。いつまでも繰り返される微細な振動信号のやりとりを無視して、青い光のアーチが中空に架けられている。
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2005/09/05(月)
とある美術展へ行ってきた。だが、何の美術展だったのか、どこで開催されていたのか、名称も地理もはっきりとは答えられない。というのも、その美術館は夢の中に構築されたものだったから。行きたいと思って行けるようなものではなく、逆に行きたくないと思っていても勝手に行き着いてしまうような、そういう美術館だった。いやそもそも、それが本当に美術館と呼べるような、固有の外殻を持った建造物であったかどうかもよくわからない。気がつけば既に回廊のような展示空間にさ迷い込んでしまっているからで、始めも終わりもない迷宮のような内部空間しか存在しないのではないかと思う。おそらく外観/外部など必要ないのだ。もっとも、こんなことが言えるのは、覚醒後の後知恵でしかないのだが。
ともかく、そこで色々な展示品を見た筈なのだが、いったい何を見たのかさっぱり思い出せない。入場料など要らないかわりに、見たものを全て記憶したまま抜け出すことが難しいようになっている。夢のシステム(夢のようなシステムではなく、文字通りの意味)を利用して、来館者にとって最も印象の強い一点だけを特に記憶して持ち帰る仕組みらしい。
ぼくが覚えている一点のみの作品とは、マグリットの「これはパイプではない」のパロディ作品だった。絵は確かにマグリットの「パイプ」そのものなのだが、タイトルが違う。「これはパイプである」とあからさまに示してあるのだ。どういうことだろうと訝しんでよくよく見ると、絵の額縁には手の込んだ仕掛けが施されていた。円筒状の塩ビ管が絵の周囲に張り巡らされ、剥き出しになった建築設備の配管に絵が巻き付かれたような具合になっている。しかも、絡まった配管の迷路を目で追ってゆくと、管の一方の端部には吸い口が嵌め込まれており、もう一方の端部にはきちんと火皿を上に向けたボールが突き出していた。とそこまでぼくが見定めると、その様子をどこかで見張っていたらしく、若い監視員の女性が近づいてきた。ぼくが何も言わないうちから、「ええそうなんですよ」と訳知り顔で頷いて、手際よく煙草を詰め、火をつけた。それからもう一方の端部へ移動して、少しエロティックな表情で吸い口をくわえる。しばらく奮闘していた(何しろ長いパイプだから、端から端まで煙を届けるのは結構きつい作業の筈だ)が、やがて口腔および鼻腔からふうっと大きく紫煙を吐き出した。火皿の方からも、ちゃんと煙が出ている。女は得意そうな顔で「これはパイプである」と宣って、実演を終了したのだった。
ぼくが覚えているのは以上である。夢の中にいる間はなかなか面白い展示だと感じたが、完全に目覚めてしまった今では、さほど面白くもない。ただ、あの美術館には、できればもう一度行ってみたいと思う。
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2005/09/04(日)
歴史の大洋を群れなして蝶が渡ってゆく。舞い続ける花弁のようだ。幾度も風に軌道を修正され、波の動きに合わせてふわふわと上下し、けれども力強い翅のリズムが、やがて大洋を渡りきることを彼等に確信させている。陽光に輝く鱗粉。蝶の群の飛翔する様は、オプチミズムの明るい祈りであり、飛翔し続けることの嬉しさなのだ。
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2005/09/02(金)
累々と積み重ねられつつ流転する「二つの世界」を、一羽の兎が飛び跳ね、行ったり来たりしていた。人間には困難な移動を彼女は楽々とこなし、自由自在に侵犯していた。相反する二元世界が、彼女にとってはたった一つの世界であり、境界も接点も存在しなかった。
だがある日のこと、壊れた虚空で、ついに彼女は時間の恐るべき罠に捕らえられた。彼女はとうとう「過去」と「未来」という概念を知ってしまったのだ。この新しい概念はあまりにも強固に反発しあったため、彼女はもはやそれを飛び越えるのは不可能事であると悟った。
兎は落下した。「二つの世界の狭間」に──「現在」に墜落したのだ。落ちてゆく悲しみに身悶えて、兎は、ピイーッと一声、汽笛のように甲高く啼いた。それがこの稀有な越境者の最期となった。
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2005/09/01(木)
どこが悪いと具体的に指摘することはできないが、全体としてなんとなく調子が悪いと感じた時、整備のために自分を分解し、埃を払い、油を差し、部品を交換したりする。どちらかというとずぼらな私は、オーバーホールをあまり定期的に行わない。そのせいか、解体された自分を見ているのは何とも奇妙な感じだ。器官や脊髄、細胞や、ワイヤーや、歯車、ベアリング、あるいは血管や電子結線の混線を眺めているうち、それらが全く自分と関わりのない他者のようにさえ思えてくる。たぶん誰でもそうなんだろうけど。
それにしても、手際の悪いやり方のせいで、再構築する時、必ずといっていいほど部分の過不足が起きる。非常に困るのだ。神経が1本足りなかったりボルトが2個余ったりするのは。適当な紐を見つけて代用したり、無理やり不要な箇所に捩じ込んで誤魔化してみたりするわけだが、やはり何となくすっきりしない。
そんなふうにして組み立て直した自分は、どうも分解する前の自分と何かが違うようだ。しかし、歯車の1・2個どうかなっても、取り敢えずなんとか動作しているのだから、ある意味たいしたものだとも思える。これが時計のような精密機械だったら、きっと動かなくなるに違いない。ということは、人間というのはそれほど精密にはできていないということなのだろう。それともこれは私だけか?
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2005/08/29(月)
わたしは複数ある。複数のわたし。だがだからといってわたしはわたしの人称を複数形にしたりはしない。わたしはわたしのことを「われわれ」などと呼びはしないのだ。わたしはわたしをわたしと呼称すればそれで充分だと考えている。わたしはメニイであり、ワンではない。だがまたわたしは全でもなく個でもない。その中間にある有限のメニイであって、おそらく無限のメニイではない。それだけはわかっている。さて、わざわざそんなことを書くのは、ほかでもない、日記と称しつつもはやわたしとは一見何の関係もなさそうな記述が続いているこの現状に対して、少し弁明しておく必要を感じたせいだ。──つまり、わたしが複数であるということは、わたしはカメレオンであり北極熊でありオランウータンであり猫であり蠍であり麒麟であり、わたしがわたしであるところのいかなる生物でもありうるということなのだ。したがって、この断片的な日々の記述は、わたしと全く関係ないどころか、おおいにわたしに関連している記録であり、わたし自身の日記としてちゃんと成立しているということが言いたかったのである。わたしが結節点であるということは、とりもなおさず、紡がれ織り込まれたテクスト(テキスタイル)の全ての編み目・結び目・交差点に等しいということなのだ。この光学的な世界の斑な偏光の焦点の中にわたしがいる。
***
「ふと思ったのですが、「わたしは死んだ」と生者が「言う」ことは可能ですが、死者が「言う」ことは不可能ですよね。ですがまた、生者が「わたしは死んだ」と言えば、それはとりもなおさず「嘘」になりますが、死者が言うなら「本当」です。偽は可能であり真は不可能であるというのは、すごく日常的なジレンマであり、かつ非日常的な状況下ではありえないジレンマです。……というような言葉遊びが連想されました。つまり日記というのは、破綻するために書くようなものなのですね。」
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2005/08/28(日)
路地裏に堆積する闇。その闇の底に一匹の猫がうずくまり、真円に見開いた黄金の瞳でじっと辺りを窺っている。背を丸め、影をまとい、大気に同化して、存在の一切、その黒いかすかな気配、その細く鋭い呼吸を楽々と気流に溶け込ませ、次なる一瞬の跳躍のために力を漲らせ、張りつめている。対流の僅かな変化に敏感に反応しながら、見えない獲物を待ち構えて電位を上げてゆき、時折その体表に(迂闊にも)青白い火花を迸らせる。
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2005/08/26(金)
塗りたくられた絵の具の湿った臭いが、カンバスの上を這いずり回るカメレオンの皮膚を刺激していた。体色の速やかな変化を繰り返しながら、カメレオンは次第に極彩色の怪物となってゆく。ぐりぐりと目を回し、酩酊し、いくつもの一瞬の永遠が過ぎ去ってゆき、宇宙のあらゆる色彩が混じり融け合い、彼の魂は白く輝き──彼の身体はやがて、黒く濁ったひとつの塊と化してしまった。
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2005/08/25(木)
北極熊が日傘を差して、のんびりと歩道橋を渡っていた。見咎める者など誰もいなかった。そのことで熊は非常にいい気になっていたらしい、すれちがう人間どもを太い腕と鋭い爪で薙ぎ倒した。殆どが即死だった。しかし死者達は、五秒後にはもう生き返り、何が起こったのか気付いていない様子で再び起き上がるのだった。北極熊はそんな生還者達に向かってウィンクすると、悠々と次の歩道橋を目指して歩き去った──傘をくるくると片手で器用に回しながら、相変わらず得意気に、のっそりのっそり白い巨体が遠ざかっていった。やがて、甦った被害者達も立ち去り、新たな横断者も現れず、誰もいなくなった歩道橋の上には、まだ赤々と鮮やかに惨劇の跡だけが残されていた。
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2005/08/23(火)
密林の奥。オランウータンが昼寝をしている。森が発生させた様々な色彩が彼の周りに寄りかかっている。やがて風が──あくびのような、それともためらいのような、目覚めの風が、彼のつぶれた鼻腔をくすぐる。くしゃみをこらえ、のびをして、彼はその思慮深い瞳を開く。樹木の枝葉の間から切れぎれに流れ込む青空の破片を、おもむろに大口を開けて受け止め、ゆっくりと噛み砕く。輝く長毛が、樹皮と擦れて、柔らかくほつれている。
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2005/08/09(火)
地下鉄に乗っていた。果てしなく続くトンネルが、わたしをカフカの書いた巣穴の獣のような気分にさせた。
わたしは誰か? かつてわたしは、わたしである誰かだった。そして今のわたしは、誰でもない誰かである。わたしは、ドストエフスキーが生み出した無名の地下室の住人にちょっとだけ似ていると思う。だがまた、多数の匿名性の中に溶解したわたしについては多くの書物に語られてもいる。
わたしは誰か。ブルトンの『ナジャ』の冒頭もまた、この問いかけで始まっていたな。しかし出発点は同じでも到着する場所が同じであるとは限らない。わたしが出会ったのは女ではなく、このわたしの分身、誰でもない誰かであった。わたしはわたしであり、そして誰でもない誰かなのだ。
ふとわたしはいたたまれない衝動に貫かれて、電車がどこかの駅に停車したとたん飛び降りた。ここがどこなのか確かめもせず、改札を駆け抜け、地上を目指した。白昼の光を求めて。
地下鉄から地上へ上る階段を駆け上がる。最後の踊り場をターンした瞬間、まっすぐ差し込んできた陽光に射貫かれた。出口のど真ん中に太陽が輝き、わたしの網膜を焼き切った。ほんの数秒間のことではあったが、ゴルゴンと眼を合わせてしまったように、わたしは石化した。太陽と視線を合わせるなど、あってはならないことだ。わたしはドラキュラ伯爵のように太陽を避けねばならなかった筈だ。なぜなら、きっと太陽だけはわたしが誰か知っているから。
だがもう遅い。わたしは太陽に見つかってしまった。ひとりでかくれんぼをする子のように、ついには隠れていることに耐え切れなくなり、誰かに見つけられるために、のこのこと隠れ場所から飛び出してしまったのだ。
無論、だからといって、太陽がわたしを誰かに変えてしまうわけでもない。太陽がムルソーを殺人者に変えたようには、わたしが変わることはない。何も変わるわけではない。わたしはわたし、誰でもない誰か。太陽だけが知る誰かである。
もう夏は傾いていた。あまりに眩ゆい光がわたしを包み込み、そしてわたしのコギトは蒸発してしまう。ただ黒々と影だけを残して。わたしはもう考えない──エルゴ──わたしはない。
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2005/07/31(日)
時間を河に見立てるというのはよく行われる比喩である。だが、時間の河には二種類あるということはあまり知られていない。時間を河に喩える場合、必ずどちらかのタイプに属し、そしてそれを唯一の時間の河だと思い込んでいる。
第一の時間の河。それは、過去から未来へと流れる河だ。我々を含む全ての存在物はこの河の浮遊物となって、現在という名の周辺の水とともに押し流されてゆく。この河のはるか上流には、時間の水源が存在し、下流には茫漠と広がる可能性の海が待ち受けている。この河では、時間は上流から下流へと流れてゆく現在として表されている。そして我々浮遊物もまた湧水と同時に源泉で生まれ、海(海は常に終着点であり出発点である)へと旅を続ける。
第二の時間の河は、第一とは逆に、未来は上流からやってくる。我々はこの河の岸に、水流に洗われながら立ち尽す葦のようなものだ。葦の位置はこの現在という名の岸に固定され、不動である。上流の源泉では絶え間なく時間が生み出され、葦の岸へと押し寄せてくる。葦は尽きることなく下流/過去へと流れ去る水流をただ見送るだけだ。
どちらの時間の河も、水源の枯れた時が時間の尽きる時であり、宇宙の死ぬ時である。どちらのタイプでも、時間を比喩的に語ることにおいて遜色はない。ただ、時間の河に対峙して存在する我々の視点が、第一の河と第二の河では全く違うだけだ。見えてくる風景の差が、そのまま世界観の差となって表れる。下流へと旅をするにつれ様々な風景が展開される第一の河に棲む浮遊物の世界観は流動的であり、ひとつ所にじっと立ち続けて河の流れを観じている葦の世界観は安定している。前者の世界観はメニイ(多)の世界観であり、後者はワン(一)の世界観だと言うこともできるだろうか。
あなたはどちらのタイプかな? それとも、わたし同様、もはや時間を河に喩えるということをしなくなった人間に属するのだろうか。
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2005/07/29(金)
時間とは、変化を記述するための便法だとすれば、当然その最小単位は時子もしくは時量子として表現できる。時子(時量子)=それ以上時間を分割できない最小の時間。時子より小さな時間で変化しうるいかなる物質も存在しない。完全な不変=宇宙停止の一瞬。この小さな時間の中では、熱も光も移動(振動)せず、神すら思考を止める。完全な不変とはつまり完全な死のことである。停止した光はどこへも届かず、宇宙は完全な闇となる。……だとすればだ、時子の単位では、宇宙は存在していないということになる。そして、むろん我々もだ。
(註:物質の変化量が不連続な値を取る場合、その変化に要する時間も不連続な値を取る筈だという閃き。うまく説明できるかどうかわからないが)
(参考)量子 quantum: 一定の最小単位の整数倍という不連続な値をとる物理量の、その最小単位量。プランクの量子仮説で提唱され、エネルギー量子とよばれたが、のちアインシュタインらにより普遍的に適用できることがわかった。
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2005/07/07(木)
私は夜の世界の住人だ。私がどれほど太陽と雲と青空と海を愛していようとも、しかしそれ以上に私は夜を愛している。夜の闇は世界の全てを内包している。決して明るみに曝されず、ただ密かに事物は闇の中を漂い、時々淡い光を放って、僅か一瞬我々の注意を引いたかと思うとすぐにまた消え去り、沈潜してしまう。何もかもが静かに謎めく。静けさ──これがキーワードだ。雑音を取り払われて精神は冴え渡り、静かに興奮し、静かに熱を帯び、静かに発狂する。事物の輪郭が静かに現れ、静かに消える。そして命も。それが夜だ。私の夜。私が本当に棲息している場所はここにしかない。どれほど私が夜明けを、最初の曙光を待ち侘びようと、どれほど日没を惜しもうと、しかし一旦夜がやって来さえすれば、もう私はどっぷりと夜に浸かり、夜の虜囚となって、それ以外の世界など在り得ないかのように振る舞い、日向を忘れ去ってしまうのである。
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2005/06/28(火)

最近カラスの鳴き声をあまり聞かなくなった。なぜだろうと訝しんでいたら、ついに今日、その理由が判明した。やつら、とうとう人語を話すようになっていたんだ。
歩いていたら、頭上で誰かが噂話をしてる声が聞こえた。それで何気なく声のほうを見上げたら、街路樹の枝にとまっていた一羽のカラスと目が合った。途端に声がやみ、カラスのやつ、しまったという顔つきをしていたよ。いかにもバツが悪そうにひと声「アホー」と鳴いたけどね、おれの目は誤魔化せないぜ。
***
「カラスが人語を使うのはたぶん大昔からです。北米原住民達はワタリガラスが世界を創造したと語り伝えています。チェコには奇妙な物語を書き綴ったカラスさえいました(カフカはチェコ語でコガラスの意)。八咫烏は太陽の中にいる三本足のカラスで天の使者だと言いますから、人の言葉くらい簡単に使いこなしていたでしょうし」
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2005/06/23(木)
さっきまで何を考えていたのか全く思い出せない。それはつまり、何かを考えていたということか、それとも何も考えていなかったということか? 失われたのはアイディアか、記憶か、それとも時間か? それで今こうして書き記しているということは、我を取り戻したということか? 自分を取り戻すとはいったいこれはまたどういうことだろう。自分というのはそんなに頻繁になくしたり取り戻したりできるようなものなのだろうか。だとすれば、自己同一性などというのは、結構怪しい概念ではないか。自分という存在が、全く断続的で、一枚おきに頁を破り取られた書物のようなものだとするなら、どうしてそこに人生の連続性を見出しうるというのか? そういえば日野啓三がなめらかで継起的に繋がった「自伝」なるものを疑っていたな。人生を筋の通った因果の道のように書くのは虚偽だ。記憶なんて、ところどころスポットライトが当たった闇のようなものだと、もしかしたら言葉は違うかもしれないが、そんな意味のことをどこかに書いていたな。切れ切れの記憶、途切れ途切れの自己、覚えていない箇所では、死んでいたのかもしれないな、少なくとも生きていたという証拠もない。そうだ、夜毎眠りに就くことだって、小規模の死と再生だと古代エジプト人はそう信じていたんじゃなかったっけな。
五万年の記憶を、我々は伝承してきたんだ──数千浬離れた者同士で会話ができる鯨達のネットワークなら、あるいは人間のおよびもつかない記憶を形成しているかもしれない。数千里離れた者同士の通信手段を、人類は最近(多く見積もっても僅か数千年というところだろう)漸く手に入れたばかりだけれど。
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2005/06/15(水)
理想化されたまっすぐな海岸線に立ち、波打ち際に平行に視線を向ける。海は青く、空も蒼く、陸地はただなだらかな砂浜が果てもなく続く。山もなく、船もなく、霧もなく、建物もなく、林も森もない、視界を遮る介在物の一切ない景観で、正面に延々と引かれた陸と海との境界線。その消失点(vanishing point)では、水平線と地平線も一点に交わり、視野の全域には湾曲したT字によって区切られた空と陸と海が見える筈だ。そのような純度の高い風景を、この惑星上のどこかで見ることができるだろうか。
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2005/06/13(月)
明け方、きょきょきょきょという甲高い奇妙な泣き声が聞こえた気がした。寝苦しさに目を覚ますと、天井に大きなヤモリが貼り付いて、ぼくをじっと見守っていた。黒く丸い瞳が窓からの僅かな光を反射させて煌めいた。するとヤモリはどういうつもりからか、ぼくに驚くべき重大な秘密を打ち明けてくれた。
このマンションのエレベーターシャフトは、彼らヤモリ族の王国になっているそうだ。誰からも見られない暗いコンクリートの壁一面に、彼らの仲間がびっしりと犇めいて、昼間中じっとしているのだという。そして夜になると、するするとすばしこくシャフトから這い出し、各住戸の寝室に忍び込んでは、今ぼくにしていたように、人々の寝顔を見守っているのだという。
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2005/06/11(土)
架空の日記に空白の日々が続いている。
では、それらの空白は架空の空白ということになるのだろうか。
架空の空白に何ビットの情報が含まれているのかを計算してみたまえ。と上司に命じられ、計算士はいそいそと席に着く。遠くで正午の鐘の音が鳴る。昼食を摂るためにぞろぞろと席を立つ同僚達をよそに、彼は真夜中の葬列(それらは延々と続く数字の行列だ)が消え去るまでは、席を離れ計算をやめることはない。
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2005/06/01(水)
ボスの快楽の園から飛び出してきたような妖怪達がぼくの周りを円形に取り囲んで踊り狂う。ぼくのいる中央部はバベルの塔のように盛り上がって、雲を突き抜け、やがて崩壊する。ぼくと一緒に、イカロスが溶けた翼を錐揉みさせながら墜落してゆく。雲の下はいつの間にか雨が降っている。自然落下するぼくと雨滴とは互いに等しい速度のため、ぼくには雨滴が止まって見えている。落下するのはぼくと雨ではなく、むしろ大地がぼくらめがけて上昇してくるのだ。雨期の灰色の大地に、艶やかな緑が斑に広がっている。ぼくは地面に呑み込まれ、地球の中心に到達する。
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2005/05/29(日)
思い掛けない出来事が起きるのを待っている。だが、それを待っている間は、思い掛けない出来事など起きる筈がない。なぜなら、思い掛けない出来事を待ち望んでいる以上、その待ち望んだ事が起きたとしたら、それを思い掛けないとは言えないからだ。
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2005/05/24(火)
月曜日の朝は、自己の奴隷性を最も痛切に感じる一時だ。だから憂鬱になるのである。
確かに、自己を奴隷であると感じた瞬間から人は奴隷になる。それは本当だ。だが一方、自分が奴隷であることを知らない奴隷というのも、哀れなものだ。まあどちらがいいということもないのだが──どちらにしても、不幸であることに違いはない。
現代の巧妙な奴隷制(上手く隠蔽され、しかも主人がいないように見える──いや、主人はいるのだが、その主人もまた別の誰かの奴隷である)について、もっと真剣に考えた方がいいのではないか。と、時に内省してみる。
(2005/06/06 追記)
創造性を必要としない単調な仕事を大量にこなしている時など、自分はロボットのようだと感じることがある。ロボットという語はチャペックが生みの親だが、チェコ語の「robota:賦役」から派生させた造語だという(正確にはチャペックの兄の思いつきらしい)が、要するにロボットはまず奴隷機械として構想されたのだ。人間のパートナー・友達などという日本(鉄腕アトム)的な甘い発想などではなかった。──それはともかく、仕事をこなす自分をロボットのようだと感じる時、それならいっそのこと自分をロボットと交換してくれとも思う。ロボットに仕事を奪われて失業? ロボットで十分間に合うようなそんな仕事なら、さっさとロボットにくれてやれ! と憂鬱な月曜日を迎え、ぼくは少し自棄になって考えるのであった。
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2005/05/19(木)
今日は風の強い一日だった。埃が目に入らぬように、スカートがまくれないように、飛来物にぶつからないように、道行く人々は誰もが自己防衛に気をとられていた。もちろんこのぼくもそうだった。
でもふとしたはずみに空を見上げると、実にいろんなものが舞っていた。歯ブラシ、ハイヒール、眼鏡、馬具、ペルシャ猫、ステッキと蝙蝠傘のペア…… 羅針盤、経文、矛と盾、ガレー船と奴隷の足枷、バッファローの頭骨……いったいどこから、いつの時代から飛ばされてきたのかわからないようなものまで。
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