‘イシュマエル氏’カテゴリーの記事

希望の国 »

 イシュマエル氏は希望と幸福を探していた。彼は不幸に見えた。彼の不幸はおそらく、彼が希望と幸福の未来を知らない(想像できない)ことにあるのだった。彼が死んだ後も子供たちによって世界は存続する。彼は不安だった。──明るい未来、希望に満ちた国家などあるものか。

 彼はもちろん恵まれた世代のひとりであり、戦争も飢餓も徴兵も懲役も本当の貧困も経験したことはなかった筈だが、ただ彼はあまりに孤独だったらしい。そうして彼は、彼自身の世代に属するものの一人として、彼自身の生にいかなる役割と責任があるものなのか(あるいはないのか)を考えあぐねていたのである──とは、ぼくの推測に過ぎず、直接彼に尋ねてみたわけではないのだが。

 ぼくと出会う以前は(あるいは今でも、たとえぼくのような気晴らしの話し相手がいたとしても)、彼の心はどこか悲観と孤独によって満たされているようなところがあった。網の中では時々、このような人間がさ迷っているのに出くわすものだ。かくいうぼくもまた多かれ少なかれそのような一人に違いない。

 そう、出会った時のイシュマエル氏は、次のようなことを独り喋っていた。

続きを読む… »

Tail-Lagoon @ 18:17   |   PageUp

Mr.Ishmael »

 イシュマエル氏と出会ったのは、ぼくが世界から見棄てられ忘れ去られたように感じていた頃のことだった。

 あてもなく街路を彷徨い、蜘蛛の巣状の路地をうろつき回り、網の辺境へ流され、橋の上の安酒場を冷やかしで覗いてみると、バーのカウンターに肘をつき、見えない誰かに話しかけるように喋っている男が目についた。

 男は不思議な風貌をしていた。つまり、影のように、風のように、一瞬でも目を離せばもう既にその顔つきが記憶からかき消されてしまい、透明な印象しか残
らないような男だった。店内の暗い照明のせいばかりではないだろう、その男自身の肉体が発する希薄さゆえに、誰の記憶の中にも彼はその姿を現すことはない
のである。

 ただ、男の話し声や話題には人を惹付ける何かがあった──いや、店は混んでいたが、彼の周囲には全く人影がなかったのだから、彼の語りに惹寄せられたの
は、少なくともぼく一人だけだったわけだ──そう、しかし、ぼくは彼に興味を持った。しばらくは酒場の入り口付近に突っ立っていたのだが、何かに導かれる
ようにして、その男のひとつ席を空けた隣に腰掛け、彼の口から流れてくるとりとめもない話題に耳を傾けることになった。音楽でも聴くようにして、ぼくはただ黙って聞いてい
ただけだ。

 それ以来ぼくは、さまざまな場所でその男と出くわすことになった。

 ほんの僅かながらでも彼と言葉を交わすようになったのは、最初に見かけて以後、随分と日数を経たのちのことである。彼がイシュマエルという名だと知ったのも、かなりあとになってからのことだった。そのようにしてイシュマエル氏とぼくは少しずつ親しんでいった。

Tail-Lagoon @ 00:23   |   PageUp