希望の国

 イシュマエル氏は希望と幸福を探していた。彼は不幸に見えた。彼の不幸はおそらく、彼が希望と幸福の未来を知らない(想像できない)ことにあるのだった。彼が死んだ後も子供たちによって世界は存続する。彼は不安だった。──明るい未来、希望に満ちた国家などあるものか。

 彼はもちろん恵まれた世代のひとりであり、戦争も飢餓も徴兵も懲役も本当の貧困も経験したことはなかった筈だが、ただ彼はあまりに孤独だったらしい。そうして彼は、彼自身の世代に属するものの一人として、彼自身の生にいかなる役割と責任があるものなのか(あるいはないのか)を考えあぐねていたのである──とは、ぼくの推測に過ぎず、直接彼に尋ねてみたわけではないのだが。

 ぼくと出会う以前は(あるいは今でも、たとえぼくのような気晴らしの話し相手がいたとしても)、彼の心はどこか悲観と孤独によって満たされているようなところがあった。網の中では時々、このような人間がさ迷っているのに出くわすものだ。かくいうぼくもまた多かれ少なかれそのような一人に違いない。

 そう、出会った時のイシュマエル氏は、次のようなことを独り喋っていた。

 ──人間の苦悩については多くのことが語られているが、幸福については驚くほど少ない。苦悩について語るより、幸福について語るほうがより困難だからだ。

 ──そしてまた、われわれは真の幸福で完全な社会形態を知らない。資本主義や共産主義について様々に批判することは可能だが、しかしそれに置き換わるべき、より肯定的な経済・政治システムをわれわれは知らない。民主主義、自由主義、社会主義、全体主義、帝国主義……悪しきものからより良きものまで、歴史を通していくつもの試みがなされてきたにもかかわらず、われわれはいまだに真に理想とする国家を見出せないままでいる。たとえユートピアを夢想するとしても、それは「どこでもない国」なのであり、そもそも徹底的な管理社会を描いたものゆえ、そんな国を探し出して住みたいなどと考える人間もそう多くはあるまい。われわれが欲しているのは、何者かによる管理とは無縁の、楽園(パラダイス)なのだから。もはやわれわれの時代に、それを信ずるに足るいかなる理念も目標もありはしないのか。

 ──たとえば、現在われわれが属するこの資本主義というシステムは、ドゥルーズという哲学者に言わせれば究極の社会形態であり、到達点の極限なのだという。資本主義を逸脱すれば引き戻され、後退すれば押しやられる、そういう限界の様態であり、その限界点では常に欲望が再生産されつつ自らを維持しているということらしい。なんとも息苦しいことだ。

 ──悪の魅力とは、そのバリエーションの豊かさにあるのだろう。不幸と悪のバリエーションは、幸福と善のバリエーションに数で勝る。悪や不幸のバリエーションは目新しく、刺激に満ち、新鮮で飽きがこない。古色蒼然として錆びつき枯れ果てた善と幸福のバリエーションとはなんという違いか。人間とは本質的に不幸な生き物なのである。無限の幸福はイメージできないが、無限の不幸ならイメージできるのだから。

 ──だがもし、無限の幸福というものがあるとしたら、それはどのような状態だろう。無限の幸福とは、きっと無限の不幸を忘れ去ることにある。つまりおそらくは、忘我の境地に達することだ。自我を棄て去り、思考停止に追いやることが、唯一、おのれの不幸を忘れることにつながるだろう(金銭について心配することがなく金銭というもののことを忘れていられるなら金持ちは幸福だ。病や怪我に気をとられ苦痛を味わわずにすむなら健康であることは幸福だ。食物や飢餓について心配せず気にかけずに生きていられるのなら……エネルギーの不足や環境の汚染と破壊などに悩まされずに生きられるなら……)。

 ──そうとも、一切合財忘れてしまえばいい。それだけのことなのだ。ところが人間というものは、この自我・自意識の強度をより高める方向に進化してきた生物ゆえに、それができない。

 ──言葉を持ち、言葉によって記憶をより鮮明に定着させ、世代を超えて受け継いでゆく。感覚は個体に帰結し、一代限りのものだが、言葉によってそれが失われるのを補完し、世代を超えて継承させてゆく。われわれが持つ自我などというもの、半分以上はそうやって上の世代から引き継がれてきた借り物に過ぎないだろう。「言葉とは本来引用のシステムにほかならない」からである。

 ──言葉を使ってものを考えること。その行為──いかにも「人間らしい」行為──こそがまさしく人間を不幸にしている。言葉が不幸を生み出している。脳を巨大化させ発達させ、「考える」という行為を生存上の重点としてきた生物ゆえの不幸だ。

 ──人間は不幸を生み出したがゆえに、その対概念としての幸福を生み出したのだ。不幸が主なら、幸福は従、──不幸が光なら、幸福は影にすぎない。Fair is foul, and foul is fair.

 ──われわれは根源的に矛盾を抱えている。言葉を持ったことによって、われわれはその根源的な矛盾に気づかされるはめに陥ったのだ。根源的な矛盾、それは生と死である。われわれはみないつかは死なねばならない存在だ。いつか死なねばならないにもかかわらず、今現在を生きねばならない存在なのだ。生物とは生きて死ぬものである。このおそろしく単純で明快な真理が、われわれにはどうしても完全には納得しかねるのだ。いったいなぜ、われわれは生きねばならぬ? 子孫を残すため? 「産めよ増やせよ地に満てよ」それもあるだろう。しかしそれならば、子孫を残せなかった者、もはや残せる可能性を失った者たちは即刻立ち去るべきであるか? しかしわれわれはその義務を全うした後も(あるいはその義務を全うできそうにないと気づいた後も)それでも生にしがみついているのだ。しかもわれわれは、人間の人生が残すものは単純にその子孫だけではないことを知っている。受け継がれるのは生命だけではない(無論、生命こそはその根本にあるものなのは確かだが)、思想や、技術といったものもまた、受け継がれてゆくのだ。

 ──それに一方では、何も残さずともやはり生きていよ、生きてゆかねばならぬという奇妙な考えもある。人の命は重くかけがえのないものだというが、果たしてどこまでそんなことを信じていられるものだろうか。──そもそも、われわれは増えすぎた。完全に地に満ちてしまった。満ちすぎて、却ってそのことでわれわれ自身を危ういところへと追い込んでいる。それを忘れるわけにもいくまい。

 ここで暫くの沈黙があったと、ぼくは記憶している。一瞬、イシュマエル氏が呼吸すら止めてしまったように、ぼくは感じた。

 ──しかしそのような疑問に完全に答えられるものでもあるまい。矛盾は矛盾として矛盾のままに受け入れ矛盾でなくすること。そこにしか希望は見出せまい。もし未来に希望と理想の国が生まれるならば、おそらくそれは矛盾に満ちた素晴らしい国となるであろう。あるいは生命の狂気に満ちた国家に。

 最後にそう呟いて、再びイシュマエル氏は黙り込んだ。その日はもう、彼は一言も口を開かず、じっとカウンターの上の汚れ(氷が溶けた跡や、煙草の焦げ跡など)をぼんやりと見つめ続けているだけだった。

 だがこれはあまりに短絡した思考である。おそらくイシュマエル氏は、自身の考えた道程をすべて声にしていたわけではあるまいし、むしろ声に出さなかった部分に彼の独自の秘密があるような気がする。それにまた、彼の言葉には、人に言い聞かせ理解してもらおうとするところが全くなかった。彼はただ自分自身に言い聞かせ、確認するように喋っていたに過ぎない。だから、聴衆がいなくとも彼は気にしなかったし、聴衆が現れても(このぼくのことだが)やはり彼は気にすることなく喋り続けていた。

 だからこそぼくもまた、気兼ねすることもなく彼の話を聞いていたのだ。何かを漠然と考えながら。そしてその日は、完全に沈黙の底に沈みこんでしまったこの奇妙な男に退屈して、暫くしてからそっと店を出た。

Tail-Lagoon @ 18:17

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