架空の死

 日記を毎日ちゃんと書いている筈なのに、気がつけば日付が飛び飛びになっている。なぜなのだろうか。もしコンピュータの日付が正しいとすれば、ぼくの一日は世界の一日と食い違っていることになる。ぼくが一日過ごす間に、世界では数日の時が経過しているということか。

 相対論によれば、時間の進み方は一様ではなく、局所的に変化する。運動する速度が速ければ速いほど時間の進み具合は遅くなり、光速では時間は停止する。だが、ぼくの運動速度は他人とそれほど大きくは変わらない筈だから、この説明は却下するほかない。

 それとも臨床上の問題だろうか。例えば、数日起きに発生する記憶喪失とかあるいは多重人格。意識がぶっ飛んでいるあいだのぼくは、他者であり、その他者は日記をつける習慣など持たないのだろう。と、そのような推測も成り立つわけだ。

 だが、もっと簡単な説明があることに気付いた。この架空の日記の架空の記述者であるぼくは、著者が怠けている時には実在し得ない、架空の存在でしかないということだ。ぼくの身体は絵空事でしかない。もっとも、記述する内容からして既に、とてもリアルな身体性を持ち合わせているとは言い難いわけだが、空白の日々を連ねることによって、ぼくの質量はますます希薄になってしまう。これが予めぼくに与えられている存在条件であり、自分自身ではどうすることもできない定めだ。──いや、そもそも存在とは物質がある時間と空間を占有している状態のことを指すのではなかったか。だとすれば、ぼくは空間を占有せず、時間においても切れ切れの不連続な仕方でしか出現しないのだから、ぼくは存在しないということにさえなるわけだ。

 こうしてぼくは非在を生きる。世界中の数多の虚構の登場人物達と同様に。それでもこうして生きている以上、不連続な非在の日々には、ぼくは死んでいるということになるのだろう。

 しかし、これを読んでいるリアルなあなたにひとつ忠告しておくが、事情はあなただってさして違わないのだ。睡眠によって寸断された不連続の意識によって、あなたの自我が構築されている以上、あなたもまたあなたの非在を許容している=死んでいる時間を保有しているということなのだから。

 あなたは夜毎訪れる休止と夢によって断片化され、その前後の同一性は証明しえない。ただ、他者としての観察によってのみ、同一性の保証を推測しているに過ぎないわけだ。

 まあそんなわけで、ぼくの非在は文字通り「死」あるいは「無」の意味だが、あなたの非在はせいぜい「仮死」でしかないと、そのように区別したいのであればお好きにどうぞ。架空の記述者であるぼくからしてみれば、どちらも区別がないように思えるけどね。

Tail-Lagoon @ 00:00

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