宇宙の果て──ふたつの願い

Devil

「願いをふたつ叶えてやろう」と慈悲深い悪魔が言った。慈悲深いという形容は、この悪魔による自称である。悪魔いわく、人間というのは常に間違った願いをするのだという。そして「せっかく叶えてやった願いを後悔し、オレたちはいつも結局、元に戻してくれと泣きつかれる破目になる」らしい。だがもし、願いがたったひとつだけという条件ならそれはできない相談だ。「ひとつだけの約束だからな。悪魔は悪魔なりに約束は守るんだ。」ところが人間は、自分の誤りとわかってもそれを悪魔のせいにして──「いやはや全くの逆恨みだよ」──おのれの間違った願いを警告もせず叶えた方が悪いのだと決めつけ、残りの一生悪魔のことを恨んで過ごす。そしてついに死ぬ間際には、大抵の者は徹底的に改心してしまい、そのため、神の使いによってその人間の魂が完全に守護され、悪魔の手に入らなくなってしまうのだという。「要するに必ず、神の野郎にうまいこと横取りされちまうんだよ。だからさ、そうならないためにオレは、仲間と違って、必然的に予見しうることには予め手を打っておこうというわけさ。そういうわけで、オレはいつも人間の願いをふたつ叶えてやることにしてるんだ。だから、お前の願いもふたつ聞いてやる。ひとつはお前が望むことを叶え、もうひとつはその望みをキャンセルするために使うがいい。」
 そこで私は、悪魔に自分の願いをふたつ叶えてもらえることになった。

 いきさつはこうだ。私は旅行者としてある町に滞在していたのだが、その町でわりと大きな地震があった。大した被害はなかったが、町で一番古い教会堂が潰れてしまったというので、私は見物に出かけた。建物の残骸が山になり、かつて塔の上で輝いていた十字架が、無残にも地面に横倒しになっていた。ふと見ると、鼠くらいの小さな黒っぽい獣が、倒れた十字架の脇でもがいていた。長い尻尾が十字架と瓦礫に挟まれて、うまく抜け出せないらしい。集まった野次馬たちは、礼拝堂のキリスト像(観光の目玉であり、この町の宝だった)を掘り出すのに夢中で、倒れた十字架のそばには誰もいなかった。そこで私は手近にあった棒切れを梃子にして十字架を持ち上げ、下敷きになった尻尾を自由にしてやった。獣はするりと尻尾を抜き去ると、すぐさまどこかへと走り去った。見慣れない生き物だったので、もう少しよく観察したいと思っていた私は、獣の姿を見失ったのが少し残念だった。しかし数時間もたつと、獣のことは忘れてしまった。

 悪魔がやってきたのはその晩のことだった。私の宿泊していたホテルの部屋に現れ、昼間助けてもらったのは自分だから、その礼がしたいという。私は断った。自分の魂は誰にも売り払うつもりはないからと。悪魔は言った。もちろんそんなつもりはない。これは本当にお礼だから、ただでサービスするつもりで来たのだと。 そして、冒頭の話になったのだ。慈悲深い上に随分と律儀な悪魔である。

 ところで私には、格別これといった願いもなかった。裕福ではないが貧しくもない、生きてゆくのにさして困ることもなかったし、仕事にも家族にも友人にも不満はなかった。──だが、こんな機会は滅多にあるものでもないし、本当にどんな願いも叶えてくれるというのなら、ちょっと無理難題を出してやれといういたずらっ気がわいてきた(それが唯一の欠点なのだが、私はちょっとしたいたずら者なのだ)。
「宇宙の果てに行ってみたい」そう私は言った。宇宙に果てなどないことは百も承知で。

 例えばこの地球には、辺境といわれる場所はあっても、本当の意味での果てなどない。球体の表面には境界がないからだ。それと同様に、計り知れないほど広大だがそれでも有限の大きさ(今のところ150億光年ほどとされているらしい)だとされる宇宙にも、しかし果てなどない。どこまでも見通すことのできる驚異的な視力を持っているとしたら、最も遠いところに見えるのは自分の背中と後頭部なのだという。宇宙は時空的な円環を描いているのだ。

 私は多少意地悪な目つきで悪魔の返答を待った。ところが悪魔は少しも困った様子もなく、二つ返事で承諾した。「いいだろう、それがお前の望みなら、宇宙の果てに連れて行ってやろう。だが本当にそんな願いでいいのかね?」「もちろんいいとも」「じゃあ決まった。さあ、今すぐ始めるぞ」言うが早いか悪魔はその醜くねじくれた指を、器用にパチンと鳴らした。
「着いたぜ、ここが宇宙の果てだ」と悪魔は言った。しかし、私たちはまだホテルの部屋にいたのだし、何ひとつ違った様子もなかった。
「なんだ、何も変わってないじゃないか。まあ、そういうことではないかと思ってたんだがね。これなら別に、最初の願いを取り消すために、二度目の願いをする必要もなさそうだ。」
「本当にそう思うかい? じゃあ、ちょっと外に出てみないか?」
 私は少々訝しく思いながらも、悪魔の勧めに従って、外出してみることにした。もしかしたら、何か凄いものが見られるのではないかという期待も、多少はあった。しかし部屋を出るためドアを開けようとしたところ、びくともしない。ドアノブはカチャリともいわず、ドアを叩いても音がしない。
「何だこれは? 私をこの部屋に閉じ込めておくつもりか?」
「いや、そういうつもりは全くないんだがね。ただこのドアはもう開かないぜ」そう言うと悪魔は私の手をとって、ドアをすり抜けた。
「うえっ」私は思わず声をあげた。ドアといわず、固体の中を体がすり抜けるなんて始めての経験だったからだ。何とも気味悪い感触を覚えた。私たちは、ホテルの廊下に立っていた。それから外に出るまでがまたも一苦労だった。エレベーターが動かず、階段を使うしかなかったのだが、階段の非常口もやはり開かず、扉に出くわすたびに悪魔の力を借りて身体を通り抜けさせるほかなかった。私はだんだん不安になってきた。階段を降りている間、私は自分の足音がしないことに気づいていたからだ。

 ロビーに出ると、もっと異様な光景が待っていた。ロビーには何人かの人影が見えた。ソファで談笑しているらしき紳士や、大きなトランクを運ぶポーター、客を迎えるベルボーイと到着したばかりらしいカップル。しかし皆静止して、身動きひとつしない。幼い男の子がロビーを駆けている様子だったが、両足が宙に浮いたまま止まっていた。その背後に、男の子をたしなめようとしている上品な母親の姿があったが、彼女の口は開かれたまま、声もなく石化していた。

 私の隣で悪魔がにやにやしていた。人間離れした顔なので、はっきりと表情は分らないのだが、その雰囲気から間違いなく悪魔は私の狼狽振りを楽しんでいることがわかった。「そうとも、これが宇宙の果てだよ。さあ、外も見物してみよう。」私たちは、停止したままのガラスの回転ドアを無視して、コンクリートの壁をまっすぐにすり抜けた(何度やっても気色悪い感覚)。
 ホテルは大きな通りに面していたので、外は結構賑やかだった。音もなく賑やか──これはどういう形容なのだろう。

 何もかもが停止した世界を、私もまた足音もなくふらふらと歩いていった。自分の影さえないことに、私は気づき、そして怯えた。「心配することはない、お前の影はまだあのホテルの部屋で、お前の帰りを待っているよ」と悪魔は言った。「光さえも止まっているのさ。お前の眼が今モノを見ているのは、光によってではなく、我が悪魔の力によってなのだよ」

 公園で噴水が、吹き上がった状態のまま凍結していた。触れてみたが、冷たくはない。いや、私は先ほどから温度をまったく感じていなかったし、手足から伝わってくる触覚──地面の反力や物体の手応えや大気の感触──がすべて何かおかしかった。私はいったい今ちゃんと呼吸できているのだろうか?
 噴水の水は、どんな細い部分や小さな水滴でさえも、微動だにしなかった。氷どころか、ダイヤモンドよりも硬い。

「どうかね、宇宙の果てにいる気分は?」と悪魔が楽しげに尋ねた。「悪くないね」と負け惜しみを言ってみたものの「これはいったいどうなっているんだ?」と尋ね返さずにはいられなかった。
「宇宙の果てとは、時空の死だよ。何もかもが運動と変化を失い、つまり時間を失ってしまう。永遠の無時間だよ。──オレたちは今、時間の位相を抜け出した場所──どこでもないどこか──に取り残されてしまったのさ。」
 私は思わず唸ってしまった。「そうか。わかったよ。だがもういい。もうたくさんだ。だから今すぐ元に戻してくれ」と私は言った。

 気がつくと私はホテルのベッドの中で朝を迎えていた。悪魔は正しかった。わたしは二度目の願いを、世界を取り戻すために使ってしまったのだ。これが私の、具にもつかない体験談の一部始終である。

Tail-Lagoon @ 20:17

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