2005/06/23(木)
さっきまで何を考えていたのか全く思い出せない。それはつまり、何かを考えていたということか、それとも何も考えていなかったということか? 失われたのはアイディアか、記憶か、それとも時間か? それで今こうして書き記しているということは、我を取り戻したということか? 自分を取り戻すとはいったいこれはまたどういうことだろう。自分というのはそんなに頻繁になくしたり取り戻したりできるようなものなのだろうか。だとすれば、自己同一性などというのは、結構怪しい概念ではないか。自分という存在が、全く断続的で、一枚おきに頁を破り取られた書物のようなものだとするなら、どうしてそこに人生の連続性を見出しうるというのか? そういえば日野啓三がなめらかで継起的に繋がった「自伝」なるものを疑っていたな。人生を筋の通った因果の道のように書くのは虚偽だ。記憶なんて、ところどころスポットライトが当たった闇のようなものだと、もしかしたら言葉は違うかもしれないが、そんな意味のことをどこかに書いていたな。切れ切れの記憶、途切れ途切れの自己、覚えていない箇所では、死んでいたのかもしれないな、少なくとも生きていたという証拠もない。そうだ、夜毎眠りに就くことだって、小規模の死と再生だと古代エジプト人はそう信じていたんじゃなかったっけな。
五万年の記憶を、我々は伝承してきたんだ──数千浬離れた者同士で会話ができる鯨達のネットワークなら、あるいは人間のおよびもつかない記憶を形成しているかもしれない。数千里離れた者同士の通信手段を、人類は最近(多く見積もっても僅か数千年というところだろう)漸く手に入れたばかりだけれど。
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Tail-Lagoon @ 00:00
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